ある日曜日のデート



 もう随分涼しくなったね、と。久しぶりに会った彼女は、長袖のシャツの上から更にパーカーを羽織っていて、いつもなら束ねている髪を緩やかに肩へ流していた。寒いのだろうか。そうですねと答えながら俺は自分の体温が上がっていくのを感じていた。彼女に会うといつもそうだ。ぽっぽっと胸が温かくなる。頬が熱くなる。確かに家を出た時は涼しかった。失敗したかと思った七分丈のシャツが、今では少し暑く感じる。
「今日はどうしよっか」
「冬服、欲しいって言ってませんでした?」
「うーん、バーゲンまで待とうかなぁ」
「それなら、久しぶりに動物園はどうです。今日は一日天気も良いらしいですよ」
「あっ、賛成!」
 モーニングのトーストを齧りながら、彼女とデートの予定を立てる。いつも遅くまで働いている彼女は、自宅に帰るとほとんどすぐに寝てしまうから、予定を立てるのはいつも当日だ。どうしても予約が必要なものは、次の週以降の予定になる。でもそういうことは滅多にない。彼女に入る休日出勤の指示が、だいたいいつも唐突だからだ。それでも土日のどちらかは必ず俺に会いたいと、彼女のほうから言ってもらえなければ、俺から言いだすことなんてとてもじゃないが出来なかった。いつも忙しいのに、俺にまで時間を割いて大丈夫だろうか。まだ学生の俺は彼女に比べれば気楽なもので、たった三つの年の差で、こうも世界が変わるのかと少し時間が恨めしくなるのだ。
「動物園っていえば、シマウマの赤ちゃんが見れるらしいよ」
「本当ですか? あ。主」
 声と同時に伸ばした指で、彼女の口の縁を拭う。トーストのケチャップが唇についていたのだ。指についたケチャップを舌で舐めると、ほんのり彼女の頬が朱に染まった。
「は、長谷部くん……」
 今生の主は俺を、長谷部くん、と可愛く呼んだ。昔のように呼び捨てられるのは、ベッドの中で理性を飛ばした時だけだ。
「はい」
「人前で主はなしだって言ったよね?」
「すみません」
「……あと今の、できればおしぼりで拭いてもらえると……」
「次は気をつけます」
 しれっと言ってはみたものの、次に同じことが起こっても俺は同じように指を舐めるだろうなと思った。まだ温かいコーヒーを飲んで、口に残った味を押し流す。彼女にキスをするときのことを考えて、ゆっくりと一口を飲み込んだ。俺はもうとっくに自分のトーストを食べ終わって、おかわりのコーヒーを飲んでいた。ちゃんと噛まなきゃだめだよと諭されながらも、俺はこうして、誰にも咎められず、食事をする彼女を眺めていられる時間が好きだった。最初は気後れしていたような彼女も、今では何も気にせずゆっくりとパンを齧っている。赤い唇。白い前歯。口の端から落ちそうになるサラダを掬い上げる舌先。ずっと見ていても飽きない。俺の一番好きな人。
 学校の最寄り駅で彼女に出会ってからもう一年だ。その間に色々なことがあった。俺が告白して彼女が真っ赤になった日のことも、初めてキスした夜のことも、それよりさらに大人の触れ合いを果たせた日のことも、簡単に思い出してしまえるけど、どうしたって本物の彼女を目の前にした時ほど、この胸は満たされない。だから今この時が、俺にとっては一等幸福な時間だった。
「ん、美味しかった。ごちそうさまでした」
「良かったですね」
 トーストを食べ終わって、彼女は紅茶に手を伸ばした。そしてようやく俺の目を見る。いつも優しく。いつも愛しく。俺もそれに微笑んで応じるのが常だった。だった、のだけど。今日の主は躊躇うようにゆらゆらと視線が揺れていた。思わず俺も眉をひそめてしまう。
「……あの、ね、長谷部くん」
「はい、なんでしょう」
「あの……、私、長谷部くんに言わなきゃいけないことがあって……」
 何か言い出しにくいことなのだろう。彼女は短くはない時間逡巡し、俺はその間ずっと不安な気持ちで彼女を見ていた。なんだろう。まさか別れ話だろうか。確かに大学生の彼氏なんて、経済的に自立した彼女から見ればお荷物にしかならないだろう。だけどこれでも努力はしている。あと一年もすれば、俺だって彼女を養えるくらいの稼ぎをあげられるのだ。俺は彼女の手に自分の手を重ねて、指を絡めた。だからどうか。別れるだなんて言わないでください。
「まだ確定ではないので言ってませんでしたが、第一志望の企業から内定をもらえそうです」
「えっ、おめでとう」
「業績次第で給与も上げられると聞いています。すぐにあなたの年収を越えてみせますから。だから、俺を捨てないでください」
「え、えっと? ごめん、話が見えないんだけど、捨てるってなに?」
「? 別れ話じゃないんですか?」
「えぇっ!? は、長谷部くん、別れたいの?」
「いえ、俺は全然!」
「私だって嫌だよ。別れないで」
「……そう、ですよね」
 一気に脱力してしまう。良かった。それなら、一体何の話だ?
「話っていうのは、その……実は、転勤が決まっちゃって」
「えっ」
「来月からって言われてるんだけど、場所がちょっと、ね……」
 彼女が口にしたのは、地図でいうなら三つほど県を跨いだ街だった。そこの支所で寿退職が相次ぎ、人員補給のために本社から人が送られるのだという。
「やっぱり独身の方が動かしやすいらしくって。……今までみたいには、きっと毎週会えなくなっちゃう」
 彼女は冷静になろうと努力していた。けれど僅かに唇が震えて、頼りなく揺れる瞳は俺に縋りたいと言っていた。そんな目をされたら、抱き締めたくなってしまう。テーブルが邪魔で今すぐは無理だけど。
「来月、から……」
「うん」
「任期とか、あるんですか」
「ううん。特にそういうのはないから、行ったら行きっぱなしかも」
「そんな」
 俺の就職先は、この近くだ。出来れば彼女と一緒に住みたいと、こっそりいくつか物件を探していたりもしたのに。離れてしまう? そんなのは嫌だ。文句が喉まで出かかった。どうして、と聞きたかった。理由はさっき聞いたのに。彼女にはどうしようもできないことだというのに。そんなことは分かっている。目の前で途方に暮れる彼女を見れば、そんなことは、俺だって。だけど、うまく気持ちの整理がつかなくて、俺は胸の内側でぐるぐる混ざる感情を抑えるのに必死だった。
「っ、ごめん、ね。朝から、こんな話しちゃって」
 切り替えが早かったのは、彼女のほうだった。
「帰りに言えば良かったね」
 いつ聞いても同じだと、分かっていながら彼女が言う。努めて明るく振る舞う彼女に申し訳なかった。寂しいのは、きっと彼女だって同じなのだ。俺に毎週会いたいと言ってくれる彼女が、辛くないはずがない。
「動物園、ここからだったらどう行けばいいんだっけ? バスのほうが早いかな」
「いえ、電車で……」
「よし、じゃあ、早く行こう! 私、シマウマの赤ちゃんが見たい!」
 伝票を持って立ち上がった彼女に、慌てて俺も腰を上げる。レジ前でいつもの問答(俺が二人分払おうとするのを彼女が止めるという例のアレだ)を披露して、それから俺たちは動物園に向かった。
 楽しめるわけがないことを、二人とも分かっていた。シマウマの子どもを見た時は少しましな笑顔だった彼女も、帰る時間が近づくにつれて口数が少なくなっていった。一日中繋いでいた手を離すのがまだ惜しくて、俺たちは乗るはずの電車を何本も見送っている。駅のホームはこれから家に帰る人たちで混んでいた。
「……どうしたら、長谷部くんとずっと一緒にいられるかなって、色々考えたの」
 俺もです、主。
「来月から、私があっちに行くでしょ。でも長谷部くんには学校があるし、就職先だって、こっちだし」
「……就職先はまだ選べますよ」
「あはは。追いかけてきてくれるの?」
「追いかけたいとは思ってます」
「やめた方がいいよ」
「どうして」
「友達が入るからって、部活選ぶのと一緒じゃない?」
 どういう意味だろう。ぎゅっ、と。繋いだ手を強く握って主は言う。
「私はね、長谷部くんがやりたいことをしてほしい」
「主」
「それで、ついででいいから、私を隣に置いて欲しい」
「俺はあなたの傍にいられればいいです」
「ううん。それじゃ、だめ」
 だって、と彼女は笑った。
「私と出会う前の長谷部くんは、私に関係なく色んなことを決めてきたでしょう? 大学に入るときも、好きなことを選んだはずだよ。やりたいことがあったでしょ? 勉強したいこと、行きたい場所、私がいなくても、ちゃんと決められてたじゃない」
 だってそれは、あなたが居なかったから。あなたに会うために出来ることがあるなら何でもしたかった。でも何をすればあなたと会えるか分からなかったから。だから、好きなことをするしかなかったんです。あなたと会えた今は、他の何を置いてもあなたを優先したいと、俺はそれだけを願っているのに。……あなた以上に好きなものなんて、俺にはないのに。
「私のために何でも簡単に捨てたりしないでほしいし、私は長谷部くんが好きなことをしてる横にいたいと思ってるよ。だって、折角長谷部くんも人になれたんだよ?」
 いつかの俺は人じゃなかった。主のために何でも投げ出す覚悟を決めて、最後は命も差し出した。夢も、希望も、俺が持つものすべては主の望みそのもので、俺はそれを正しいことだと思っていた。それがとても勿体なかったのだと、いつだったか彼女が言っていたことを思い出す。
「わたしはついででいいの。ついででも、長谷部くんが選ぶものの中に入れてるなら、それで」
「俺はそんなつもり、ありません。あなたを、一番に思っています」
 1番線を特急列車が通過します、ご注意ください。構内アナウンスで彼女の声が聞きとり難い。体を折り曲げて彼女の顔に近づくと、その頬が滅多に見れないほど赤く染まっていることに気が付いた。彼女はちらりと俺を見て、すぐに視線を逸らしてしまう。俺は彼女の言葉を待っていた。彼女がまた、ぎゅっと俺の手を握った。耳を真っ赤に染めあげて、彼女が言う。本当に? その声は少し震えていて、また俺は彼女を抱き締めたくなった。周りは帰宅途中の人でごった返していて、こんなところで抱擁を求めたら、主はきっと怒るだろう。
「それなら、お願いしても、いい?」
 電車が近づいてくる音がした。聞きとりづらい声に、更に俺は顔を近づける。
「長谷部くんが、就職して落ち着いたら、いつか私をお嫁さんにして」
 ごおっと風が髪の毛を揺らす。通りすぎていく電車の音に、ギリギリ重ならず聞こえた彼女の言葉。俯いた彼女の耳はさっきよりも赤い色を濃くしている。つられて俺も、次第に頬が熱くなるのを感じていた。
「……もちろん、です」