君のための



01 君を抱くための腕

 夜が静かに空を覆って、僕たちが眠りにつく時間がやってくる。三々五々部屋へ戻る刀剣たちに混ざって、きみが僕たちにおやすみの言葉をくれる。おやすみ。おやすみ。応えて返されたいくつもの声に、きみは嬉しそうに微笑んで踵を返す。それを見送って、僕は明日の朝の下ごしらえを続けた。
「主、起きてる?」
 明りの消えた部屋の中で、布団に包まったきみが身じろぎするのが分かった。寝入りばなを挫いたのだろう、不明瞭な返事が返って僕は苦笑した。夜目のきかない僕は、開けた襖の隙間から、廊下の明りで主の位置を記憶して、それからそっと襖を閉める。記憶の通りの歩数で布団の縁を踏みつけると、そのまましゃがんだ僕は、掛け布団の膨らみを撫でるように確かめた。横向きに丸まったきみの腕のライン。肩から布団の端を越えて、柔らかな髪に触れた。
「ん…。」
「起こしたかな。ごめんね?」
「…光忠?」
「うん。僕だよ。」
「今日は遅かったね…?」
「明日の朝ごはん、ちょっと凝ったものにしちゃった。」
「ふふ、それは、楽しみだね。」
 僕は屈んで寝転がったままにきみにキスをする。
「ん…。」
「…僕としては、今からすることのほうが楽しみ、かな。」
「…えっち。」
「なんとでも。」
 幾度となく繰り返すキスの合間に、きみの腕が僕の首へ回る。布団を捲って、僕もその中へ。押しつぶさないよう、注意してきみを抱き上げる。安心しきったきみの吐息が、僕の頬に触れた。
「好きだよ。大好き。」
 そっときみを抱きしめて、僕は何度も呟いた。


02 君に触れるための手

 朝起きて、顔を洗う。飛び跳ねた寝癖を撫でつけ、伸びてきた髭は剃る。きみと顔を合わせるまで、最低限必要な身支度。たとえ褥をともにしても、できればきみが目覚める前に、僕は身支度を終えていたい。
「主。おはよう。朝だよ。」
 さっきまで僕自身も潜り込んでいた布団を揺する。幸せそうに眠っていたきみの眉根が寄せられ、ううん、と濁った声がその喉から漏れた。昨日の夜は、蕩けるように甘い声を聴かせてくれた可愛い喉も、寝起きは調子が出ないらしい。
「あーるーじー、朝だよー。」
 布団に潜り込もうとするきみを遮り、僕は容赦なく布団を剥いで朝の冷気にきみを晒した。寝相に乱れた夜着の隙間から、きみの鎖骨やふくらはぎが覗いて目の毒だ。これだから、きみを起こす役目は誰にも譲れない。
「主。ねぇ、起きてくれないかな?」
 僕は剥き出しの掌で、きみのふくらはぎに触れる。びく、と震えた足の反応を逃さず、するすると肌を撫でると、布団を掴んでいたきみの手にぎゅっと強く力がこもった。
「…起きない子には、いたずらするよ?」
「…もうしてるよね…?」
「おはよう、主。」
「…おはよう。」
 ようやく目を開けたきみに、ぼくはにっこり微笑んで、手にしていた手袋をはめた。きみの体温を忘れないうちに。


03 君を支えるための肩

「ひゃあっ!」
 聞こえた悲鳴に慌てて厨から顔を出すと、中庭で尻餅をついたきみの姿が目に入った。きみの前には鶴丸さん。
「どうしたの!?」
「あー、すまん。」
「もう、鶴丸の意地悪!!」
「だから、すまんって。おい、立てるか?」
 一体どんないたずらをしたのか、鶴丸さんのドッキリにまんまと引っかかったきみが腰を抜かしたのだというのはよく分かった。鶴丸さんが伸ばした手にきみが縋るより早く、僕の腕がきみを抱き上げる。
「お。」
「主、大丈夫?」
「…お尻打った…。痛い…。」
「お尻だけ? なら大丈夫かな。」
 主のお尻を軽くはたいて、服についた砂を落としていると、鶴丸さんがふぅんと意味ありげな声をあげた。そんな鶴丸さんに、主がキッと強い視線を向ける。にやにやと笑っていた鶴丸さんが僅かに怯んだ。
「鶴丸は今日から一週間、厠掃除だからね!!」
「おいおい、まじか。」
「さぼったら更に一週間追加します!」
「わーかった、わかった。ちゃんとやる。悪かった。」
 降参とばかりに両手を挙げた鶴丸さんが、僕に視線を移してにやりとした。
「尻に痣ができてないか、あとで燭台切に見てもらえよ。」
「お風呂掃除もつけようか!?」
「すまん、冗談だ。」
 何を言っても墓穴を掘るのに、鶴丸さんは口を閉じない。仕方なく僕は主を促して、建物の中に入ることにした。
「主。自分で歩ける? 朝ご飯できたから、もう広間で待ってるといいよ。」
「うー、光忠悪いけど、ちょっとだけ肩貸して。」
「はいはい、どうぞ。」
「ありがとう。」
 きみが体重をかけやすいよう、僕はいくらか屈んで肩を差し出した。危なっかしいきみの腰に、もちろん片腕を回して。
 あついねぇと後ろで鶴丸さんが言うのを、僕も主も聞き流した。


04 君の名を呼ぶための口

「ごちそうさまでした。」
 空いた食器を手にしたきみが、僕の背中に声をかける。とっくに食べ終わった刀剣たちの、山積みの食器を洗っていた僕は振り返らずにお粗末様と声をかけた。洗い終わっていないほうの山へ、きみの小さな食器が重なる。
「今日は後片付けも光忠なの?」
「うん。だからちょっと品数を多くしてみたっていうのもあるんだよね。」
「そういえば、今日は一皿多かったね。どれも美味しかったよ。」
「そう? きみの口に合ったなら良かった。」
 きみが食べている顔を見れば、おのずと味の良しあしは分かるから、今日も上手く作れたのは分かっていたけれど、やっぱり本人の口から聞けると喜びもひとしお。僕が機嫌よく洗い終わった食器を積み上げると、手伝うね、と言ってきみは食器拭きを手に取った。
「いいよ、そんな。」
「私がやりたいからやるの。それに今日の近侍は光忠でしょ。早く終わって、お仕事手伝ってもらわないとね。」
 僕はきみのこういうところが好きだなぁ、ってよく思う。
「ほら、光忠。水が出しっぱなし。」
「ああ、ごめん。」
 きみに見惚れて手が止まっていた僕は、慌てて残りの食器を片付けにかかった。かちゃかちゃ、ざぁざぁ。流れていく水と、食器のぶつかる音のほかには、きみと僕の呼吸だけが聞こえる。
「○○、好きだよ。」
「!」
 閨でしか呟かないきみの名を、そっと呟くときみは驚いたように僕を見上げた。僕は頬が熱いのを自覚して、きみのことを見返せない。
「…私も、好きだよ。」
「うん、ありがとう。」
 その後、僕らは黙って残りの食器を洗った。


05 君を見つめるための目

「はっはっは! いやぁ、すごい量だよねぇ。」
 まるで他人事のようにきみが言う。わざとらしい笑い方に、僕の頬も引き攣った。
「これを明日までとか、政府は私をなんだと思ってるのかな!?」
「主様は優秀ですから、政府からの期待も厚いのですよ。」
 おべっかを使う管狐に、主がじと目を向けると、さすがのこんのすけも黙ってしまった。
「まぁ、でも、片付けるしかないんだよね。」
「それじゃ、主。はやく終わらせてしまおうか。」
「うん、よろしく光忠。こんのすけは、邪魔だから出て行ってね。」
「ひどいですよ、主様。」
「だってこんのすけは手伝ってくれないでしょ? 書類広げるから、こんのすけにウロウロされると困るんですー。」
「終わったら声をかけるよ。」
 主と僕に追い出されて、しぶしぶ管狐が部屋を出て行った。文机の上に積みあがった書類は、普段なら三日分の量である。そのほとんどが、本丸運営に関わる報告書だと聞いて、僕は長谷部くんにも手伝ってもらおうと提案をした。彼は人一倍本丸の状況を把握しているから、こういった報告書はお手の物だろう。
「それじゃ、ちょっと長谷部にお願いしてくるね。」
「うん、いってらっしゃい。僕は先に始めてるよ。」
 こんのすけが出て行ったばかりの障子を開けて、きみはパタパタと足取り軽く駆けていく。開けたままの障子の向こう、ちょうど長谷部くんは中庭で素振りをしているところで、庭に下りた主が長谷部くんの名前を呼ぶのが聞こえた。呼ばれたほうは、まるで陽が差したような笑顔を見せる。綺麗な顔立ちの長谷部くんは、無表情だと近寄りがたい雰囲気があるのに、主の前でだけは柔和な笑みを浮かべて、ひどく優しい顔をする。長谷部くんにつられたように、主も優しい笑みを見せていた。
 じわ、と滲んだ苦い思いに、僕は仕方なく苦笑してみる。嫉妬なんて馬鹿げている。そう思っても、自分の手の届かないところにあるきみの笑顔が、他の誰かに向けられている事実は苦しい。
 少し話をしただけで、長谷部くんはうやうやしく主に向かって頭を下げた。彼が主命を断るはずがないのに、主は心底嬉しそうに長谷部くんに向かって笑顔を見せている。また胸が苦しくなった。けれど。
「あ。」
 思わず声が漏れたのは、急に振り返ったきみと目が合ったから。ずっと見ていたのを知っているのだろうか。明らかに自分に向けられた笑顔は、長谷部くんに見せていたのとはまた違う、鮮やかな笑顔だった。…僕の、贔屓目かもしれないけれど。
 こっそり僕に向かって手を振って、きみは長谷部くんよりも早く僕の元へ戻ってきてくれた。


06 君の声を聞くための耳

 書類作成は分担制になった。戦績にかかわる報告はすべての結果を把握している主の担当。資源や刀剣の練度にまつわる諸々の報告は長谷部くんが引き受け、本丸の食費、運用経費、その他生活にかかわる報告は僕が受け持つ。最初に分類した書類をそれぞれが抱えて、主は文机に向かい、僕と長谷部くんは広間から拝借した座卓に向かって筆を走らせた。無駄な会話は一切なく、ただひたすら書類を埋めることだけに集中する。ひとりひとりの受け持ちが、普段の一日分の量に当たるのだ。効率的に進めるために、無駄を極力排し、僕たちは無心で書類をまとめた。
「おわ、った…!」
 最初に声をあげたのは主だった。すでに日は傾きはじめ、部屋の中も薄暗くなってきている。僕と長谷部くんは顔を見合わせ、それから口々に主に向かって褒め言葉を吐きはじめた。
「おめでとう! やったね!」
「さすが主です! 素晴らしい!」
 自分の書類に向かいながら、言いたいことを口走っている。主はあははと笑いながら、部屋の明りをつけたあと、ちょっとお茶を入れてくる、と言って中座した。そういえば、昼餉を食べるのも忘れていた。こんのすけが気を利かせたのだろうか、誰も呼びに来ないとは、嬉しいような腹立たしような、複雑な気分だった。僕も長谷部くんも、また黙って書類に没頭した。急に静かになった執務室には、主が持ち込んだ時計の音が聞こえるほかは、さらさら紙を撫でていく筆の音しか聞こえない。と、ふいに長谷部くんが僕の名を呼んだ。
「燭台切。」
「うん?」
「貴様、主とどういう関係だ?」
「…どう、って?」
「しらばっくれるな。ほかの刀剣に向かうときと、主の態度が違うのは分かっている。」
「なら、訊くまでもないじゃないか。…僕は彼女のことが好きだよ。」
「…主と、深い仲なのか。」
「…下世話なことを訊くね。ああ、そうだよ。僕は彼女の名前も知ってる。」
「っ!」
「彼女が僕に、教えてくれたから。」
 名を縛る気は微塵もない。教えてもらえなくても良かった。だけど彼女が僕にくれた。それなら、僕は僕の命が許す限り、彼女の名前を秘して守ろう。
「…そうか。」
 長谷部くんはそれ以上本当に何も言わず、黙々と仕事を片付け続けた。軽い足音が廊下をこちらに近づいてくる。お盆を手にした主が、危なっかしく障子を開けて僕らを見下ろした。
「ふたりとも〜、ちょっと休憩しない?」
「ありがとう。僕が淹れようか。」
「いやいや、私が淹れるよ。」
「ありがとうございます、主。俺も今終わりました。」
「本当!? さすが長谷部!」
「主命を果たしたまでのことです。」
 僕が驚いて目を開くと、長谷部くんが勝ち誇った顔を向けてきた。…性格悪いなぁ。僕たちは書類をわきに片付けて、代わりに主の持ち込んだお茶とお菓子を広げてくつろいだ。
「光忠のほうは、どんな感じ?」
「うん、あとちょっとってところかな。普段は記録してないものが多いから、さかのぼるのに手間取っちゃって。」
「あ〜、戦績とか資源のことは、結構頻繁に記録してるもんね。一番面倒なところ渡しちゃったかな。」
「大丈夫、あらかた終わったから、なんとかなるよ。」
「俺も手伝いましょうか。」
 長谷部くんの申し出に、作りかけの書類を覗いていた主が首を横に振った。
「ううん。大丈夫。あとは光忠とふたりでなんとかなるよ。長谷部はお休みの日なのに、手伝わせちゃってごめんね。」
「お役に立てたのなら幸いです。何かありましたら、遠慮なさらずこの長谷部にお申し付けください。」
「うん、ありがとう。今日はすごく助かったよ。」
 長谷部くんは素直に引き下がり、作り上げた書類を主に渡して部屋を出て行った。食べ終わったお菓子やお茶の片付けも一手に引き受けてくれたから、僕と主はそのまま残りの作業に取り掛かった。主は文机に向かわず、僕と同じ座卓の向かい側に座って作業を再開した。終わりが見えると作業は早い。それほど時間をかけずに、僕たちは最後の書類を書き上げた。日付はまだ変わる前だ。
「終わったね…!」
「あ〜、疲れた…!」
 二人して畳に倒れこむ。散らばった書類を順序通りに揃えて提出すれば、今日の仕事はすべて終わりだ。とっくに夕餉の時間も過ぎていたけれど、僕たちはごろごろ畳に寝そべって、疲れた体をだらだらと遊ばせていた。
「光忠。」
 主が僕の名前を呼んだ。座卓を挟んで反対側に倒れこんでいるから、声だけが聞こえる。
「うん?」
「今日は遅くまでありがとう。」
「どういたしまして。」
「おなか減ったね。」
「うん、減ったね。」
「お風呂入ったら、寝るのは遅くなっちゃうかなぁ。」
「そうだね。」
「…今夜も、部屋に来てくれる?」
「…行ってもいいの? 疲れてない?」
「疲れたから、光忠と一緒に眠りたいな。」
「…それ僕が我慢しないといけないやつかな。」
「あはは、どうだろうね?」
「あおずけがないなら行ってもいいかなぁ。」
「光忠って案外がっついてるよね。」
「まぁ、仕方ないよね?」
 こうして声を聴くだけで、きみのことを抱きしめたくなるんだから。


07 君の傍に行くための足

「あー、おなか減った。」
「夕餉はカレーだったみたいだね。ちょっと待ってて、すぐに準備してくるよ。」
「私も手伝う。」
 ふらふらとした足取りで言われても、僕は心配になるだけだ。
「だーめ。きみは座って待ってて。」
「ええー。」
 きみも自分の限界には気づいているんだろう? 一食遅れただけじゃない、昼まで抜いているんだから、空腹と疲れて、ふらふらしてるのに見栄は張らないで。
 無理やり食卓に座らせたきみを残して、僕はカレーの鍋を温め始めた。保温状態のご飯をよそって、お盆に付け合わせの野菜を並べる。手早く準備した二人分の食事を持って、僕が食卓に顔を見せるときみの顔が輝いた。
 これだから、僕は人の形を取れたことが嬉しくてならない。


08 君にときめくための心臓

「主、お風呂空いたみたいだよ。」
「ん〜? 光忠が先に入って?」
「なんで。きみのほうがもう目が閉じてる。」
「あ〜、じゃあ一緒に入る?」
「待って、ちょっと待って。」
「あはは、顔が赤いよ。」
 心臓がうるさい。黙れ僕の心臓。


09 君と生きるための命

「今日も一日よく頑張りました。おやすみなさ〜い。」
「ちょっと待って主。髪が乾いてないよ。」
「寝てる間に乾くよね?」
「ちゃんと乾かさないと髪が痛むから。それに寝癖がすごいことになるから!」
「はいはい。」
「こら、寝ない! ドライヤー持って、ほら。」
「うん〜? 眠い。」
「ああ、もう、しょうがないな。」
 半分眠ってしまったきみの頭に向かってドライヤーを構える。吹き出した熱風に、きみの柔らかい髪が揺れた。熱くならないように注意しながら、頭のてっぺんから髪の先まで丁寧に乾かしていく。
「ん〜、ありがとう、みつただ。」
 眠気はピークを迎えているようだ。のんびりとした口調になるのは、きみが眠くなったとき。うるさいドライヤーの音にも負けず、きみはうつらうつらと船をこぎ始めた。
「はい、おしまい。ちゃんと布団で寝るんだよ。」
「うん。みつただも、はやくきてね。」
 僕は思わずドライヤーを取り落としそうになった。確かにさっきは一緒に寝たいと言われたけど、こんなに意識を飛ばしそうにしているのに、まだ僕を欲しがってくれるのか。
「…きみ、今日は大人しく寝なよ。」
「きてくれないの?」
「…自分の状態、分かってて言ってるのかな、きみは。」
 僕がため息をつくと、眠そうな目で、それでも彼女は僕を見上げた。
「じゃあわたしがみつただの部屋にいく?」
「…そういう問題じゃないよ。」
「やだ、いっしょにねたい。」
「わかった。わかったから。…お風呂入ったらちゃんと行くから、先に寝てて。」
「うん。」
 嬉しそうな顔のきみにほだされて、僕は自分の甘さに辟易する。まったく、きみに弱くて嫌になるね。これはきみに恋しているから。きみが僕を求めてくれるから。僕が刀の本分を忘れて、きみに溺れてしまっても、きみは今と同じように僕を欲してくれるかな。
 …意味のない空想だ。僕はきみの力で生まれた。きみと生きるために生まれた。それだけで良いはずだったのになぁ。


10 君のための僕でありたい

 風呂からあがって彼女の部屋に向かうと、暗闇に丸まった彼女は静かな寝息を立てていた。昨日の夜とは違って、完全に夢の中。呼びかけても返事は返らず、僕は襖を開けたままで、彼女の布団に近づいた。年よりあどけなく見える寝顔に、自然と頬が緩む。横向けに丸まった彼女の頬に、柔らかな髪がかかってその表情を半分隠していた。その髪をかき上げて、あらわになった頬へ唇を落とす。
「主、来たよ。」
 低く呟いた言葉に答えが返るとは思っていない。僕はしばらく廊下から差し込む明りで彼女の顔を眺め、それから襖を閉めに戻った。このまま自分の部屋へ戻ればいい。たとえ明日の朝目覚めたきみが、隣に僕を見つけられなくても、いつものように先に起きたよと笑って起こしにくればいい。それだけだ。それだけ。なのに。
「ん…みつ、ただ。」
 寝言で名前を呼ばれただけで、僕の足は動かなくなる。きみが好き。そんな単純な感情が、僕の動きを簡単に変えてしまう。僕は部屋の内側から襖を閉めると、そのまま彼女の布団に潜り込んだ。
 大きくはない布団の中で、はみ出さないように彼女の体を抱きしめる。柔らかい。温かい。きみの髪に顔を寄せると、とてもいい匂いがする。僕は僕のためだけにきみを抱きしめて、その後頭部におやすみ、と呟いた。きみが好き。きみをずっと愛している。今も、これからも、ずっと、僕はきみのための僕でいる。だから。
 今だけは、僕のためにきみを抱きしめさせて。