恋わずらい



「長谷部です。お呼びと伺いました。」
「どうぞ。」
「失礼します。…なにか、ご用でしょうか。」
 夜も更けた本丸の中でも、主の部屋は一際静かだ。これが短刀部屋にでもなれば、やかましいと叱りつけても静かになることなどないのだろうが、母屋から渡殿でつながった対の屋は、主の寝室としてしか利用されていない。本来は対の屋と呼ぶのもはばかられるほどに小さな建物だが、寝室として使用されている部屋と、隣り合ったこの居室は、主がお一人で使用される分には十分な広さだ。たまに短刀を招いて遊んだりすることもあるようだが、俺は数えるほどしか呼ばれたことはなかった。昼間は母屋の執務室にいらっしゃるから、俺が訪うのはもっぱらそっちが多いのだ。なぜ今夜は呼ばれたのか。
「夜遅くにごめんなさい。」
「いえ。しかし、五虎退に言付けされるとは珍しいですね。」
「そうなの。さっき五虎退の虎ちゃんたちに、新しい飾り紐を合わせていたんだけど、そのときたまたま思い出して。丁度いいから呼びに行ってもらったんです。私から出向けば良かったんだけど、こんな格好でしょう? うろうろするのも気が引けて。」
 言いながら主はおっとりと笑った。こんな格好、というのは寝間着のことだ。すでに湯浴みも終えられ、解いた髪が肩から腰へと流れている。濡烏の髪は美しく、俺は思わず目を細めた。
「思い出した、とは…?」
「ほら、少し前に話したことがあったでしょう。長谷部みたいな飴がある、って。」
「はい。」
 俺の装束とよく似た色の飴があるのだと、審神者仲間から聞き及んだ主がお話くださったのは、つい数日前のことだ。まるで長谷部を模したかのようだと審神者仲間で人気があると笑っていらっしゃった。食べてみたいが人気なだけに手に入りにくい、とも仰っていたはずだ。
「その飴をね、少しだけ分けていただいたの。」
 いそいそと立ち上がった主が、部屋の文机に置かれた小箱を取り、今度は俺の傍へ膝をつく。ふわりと香ったのは、主の髪からか。化粧っ気のない頬に、柔らかそうな産毛が生えていることさえ分かるほどの至近距離で、主が小箱の蓋を開けた。小さく透明な袋の中に、小粒の飴が包まれている。なるほど、俺の服の色合いとよく似ている。しかし数は少ない。たったの三粒とは。
「ね、長谷部そっくりの色でしょう?」
「よく手に入りましたね。」
「ふふふ。今度の演練で、三日月さんを連れていく約束をさせられました。」
 他の審神者と取引をしたらしい。三日月宗近はまだ持たない審神者が多いらしく、戦いぶりを間近で見たいという審神者仲間から演練の申し込みがあるほどだ。無茶な要求でなくて良かった。主は人が好いから、こういう取引ごとは控えてもらいたいのだが。
「大丈夫。たとえ欲しいものがあっても、変な要求には応じません。」
 俺の心中を読んだかのように、主がそんなことを言う。面食らって主を見ると、顔に出すぎですと笑われてしまった。そう、なのかもしれない。主のことになると、俺は冷静な判断が出来なくなる。恋い焦がれて胸のうちを晒し、この柔らかい手を望んだ俺に、主は情けをくださった。それで俺たちの関係が、ただの主従から恋人に変わったのは一月ほどまえのことだ。一目を憚る仲であることに変わりはなく、表向きは今までと同じように忠臣として振る舞っているつもりだ。ただ少し、こうして二人きりの時間が増えた。ぬるま湯に浸かったように、優しい時間。幸せだと思う反面、主の態度にもどかしさも募る。主はいつも穏やかに微笑み、焦がれているのは俺だけなのだと思い知らされるばかりで。いまも、こんなに近くに寄り添っているのに、鼓動を速くしているのは、きっと俺ひとりなのだろう。
「さぁ、長谷部。一緒に食べましょう。」
「俺、ですか?」
「だめかしら。ああ、もしかして、もう歯を磨いてしまった?」
「いえ、まだです。それより主、ようやく手に入ったものならば、俺に分けて下さらなくても、ふがっ。」
「またそんなことを言う。いいですか? 私は長谷部と食べたいと思ったから、頑張って探し回ったんですよ?」
 主が俺の鼻をつまみながら、形のいい眉を吊り上げた。俺は慌てて細い手を鼻から引きはがす。ふくれっ面でそっぽを向いた主は、拗ねてとがらせた口先で、また可愛らしいことを言った。
「…少ししか手に入らなかったから、他の子に見つからないうちに一緒に食べようと思ったのに…。」
「主。」
「いらないなら、私ひとりで食べます。」
「主、申し訳ありません。…俺も食べたいです。」
「…本当に?」
「はい。いただけませんか。」
「…しょうがないですね。」
 しぶしぶといった様子で主がこちらに向き直った。口調とは裏腹に、口元が緩んでいる。…可愛らしいな。細い指が、小さな袋から一粒だけ飴を取り出した。
「これは長谷部の分。」
「ありがとうございます。」
「はい、あーん。」
「!?」
「ほら、長谷部。口を開けて。」
「は、はい…っ。」
 主に、手ずから食べさせてもらってしまった…。俺の唇に、主の細い指が当たる。柔らかい。
「美味しい?」
「…はい。」
 正直に言うと味など分からないのだが、主が期待の表情で見つめてくるのに否とは言えない。すると主は嬉しそうに微笑んで、自分も飴を食べるべく、もう一粒をつまみ出した。思わずその手を掴む。
「長谷部?」
「…今度は、俺が。」
 手袋を外して、主の指から飴を奪った。
「主。口を開けてください。」
「う、長谷部。」
「嫌とは言わせませんよ。…俺も恥ずかしかったんですからね。」
 有無を言わせず、主の口に飴を押し付けた。小さく開いた唇の隙間に、飴を押し込むと、先ほどと同じように今度は俺の指が主の唇に触れた。またしても、柔らかい。
「むぐっ。」
「あ。」
「…長谷部…。無理矢理押し込むなんて、酷いです…。」
「も、申し訳ありません。」
 恨めしそうに主が俺を見上げて、俺は思わず謝ってしまった。本気で怒られているわけではない。その証拠に、主の頬は赤い。すぐに逸らされた視線が、ただ照れているのだと言い訳をするかのようだった。口の中で溶けだした飴玉が、じわりと甘味を広げていく。それはまるで、目の前で恥じらう主から滲み出たような甘さだった。主も、口をもごもごと動かして飴玉を舐め始めた。
「…甘いわ…。」
「はい。黒糖、でしょうか。」
「不思議。見た目は、長谷部なのに。」
「ぐっ。」
「うふふ。長谷部を食べてしまいました。」
「あ、主…。」
 あえて語弊のある言い方をしてみせて、仕返しのつもりだろうか。口の中で、ころりと塊が転がる。主の言葉をそのまま飲みこんだような甘さ。それとも、この笑顔を飲みこんだのだろうか。甘く甘く、溶けていく。口の中の飴に意識を集中しているとでもいうかのように、どちらからともなく口数が少なくなって、俺たちは黙ったまま無心に飴を舐め続けた。熱心に舐めたからだろうか。それは容易に小さくなって、あっという間になくなってしまった。主も食べ終えたらしい。手の中の小箱を覗き込んで、どうしようかしら、と言う声が聞こえた。
「一つだけ残ってしまうわね。」
「主が手に入れられたものです。どうぞ、お召し上がりください。」
「でも、私だけふたつも食べるのは、ずるくないかしら?」
「では他の誰に食べさせますか? 五虎退にやるとしても、他の短刀が黙っていませんよ。」
「そう、ね。半分にできればいいんだけど、…砕けてしまうわ。」
 脆い飴玉だ。二つに割るのは無理だろう。俺も主の意見に同意する。置いておいても仕方のないものだし、なまじ誰かに見つかると後が厄介だ。今食べてしまうのが得策だろう。
「こんなことなら、偶数にしてって頼んでおけば良かったですね。」
「はは。主には無理ですよ。そんなに厚かましいことを頼めるはずがない。」
「こう見えても、私は結構欲張りですよ?」
「そんな風には見えません。」
「長谷部は私のことを何でも分かっているつもりなんですね。」
「…そんなことも、ありませんが。」
 知りたいとは思う。あなたの何もかもを。けれど、望めば望むだけ、あなたは俺に与えてくれるだろう。優しすぎる主。想いを告げたのが俺でなくても、あなたは応えてしまったのだろうかと、時々不安になるほどに、あなたは俺にひどく優しい。
「やっぱり、ひとりで食べるのは気が引けます。長谷部が食べてくれませんか?」
「主命とあらば、それでもいいですが。…ああ。分け合うことも、不可能ではありませんよ。」
「え?」
「こうすればいいんです。」
 主の手から、再び飴玉を奪う。先程よりは少し優しく、主の唇に飴を運ぶと、今度は素直にその口が開いた。口の中に飴が吸い込まれたのを確認して、俺はにっこりと笑う。飴を手放した手で、そのまま主の頤(おとがい)に触れた。あまり急な角度にすると飴が喉に転がりそうだ。仕方なく俺は、自分がかがむことにした。
「長谷部?」
「――失礼します。」
「っんぅっ!?」
 ぬる、と唇を割った舌が、主の歯列に触れた。こじ開けた口腔に舌を潜り込ませると、主の唾液は甘く、黒糖の味がする。
「っう…、ン…ぅ…!」
「はぁ、…あるじ…。甘い、ですね…。」
「は、長谷部…っ。」
「ん…。」
「ふ…っん、んんっ…!」
「…暴れないでください、あるじ…。」
「はせ、…っん…!」
 探るように口の中をかき混ぜて、俺の舌が飴玉を探す。唾液を飲みこむのと合わせて、口の端に寄っていた飴を主から取り上げる。舌の上で直に甘さを感じながら、俺は主の舌にそれを押し付けた。甘い。舌先から滑り落ちてしまいそうな塊を、何度も吸い上げて主の舌に絡ませる。少しずつ溶けていく飴とともに、主の純潔も溶けていく。うっすらと目を開くと、涙目になった主の顔が間近にあって、俺の欲情が一気に昂った。潤んだ瞳。熱を孕んだ吐息。必死になって俺にしがみつく様は健気で愛おしく、俺はもっと主のことを貪りたくなって、手をかけた頤を仰向かせた。
「…っぐ…っ!?」
「!」
「っごほ、ごほっ! っ、はぁっ、はっ…っ、飴、を、飲みこんで…、」
「だ、大丈夫ですか? もう随分小さくなっていたようですが、喉に詰まったりは…。」
「っ! は、長谷部!!」
「! はいっ!」
「い、いきなり、なんです…! あんな…っ、あん…っ!!」
 真っ赤な顔をして、主が濡れた口元を覆っている。まだ抱き合うように近い距離で、べし、と主が俺の胸を叩いた。遠慮のない力で、もう一度。乱暴が過ぎただろうか。しかし俺も男だ。こんな風にふたりきりで、湯上りの想い人と一緒にいて気がやられないわけがない。
「…主、あなたはずるいですね。」
「そんなに食べたかったなら、一人で食べれば良かったんです!」
「飴のことではありません。…ねぇ、主。ここが離れだと分かっていて、俺を呼んだんでしょう?」
 大声で必死に叫びでもしない限り、母屋に声は届かない。多少声を荒げても、誰にも気付かれることはないのだ。たとえそれが、悲鳴でも、嬌声でも。
「あなたとふたりきりで、俺が何もしないと思ったんですか?」
「っ!」
「目の前に旨そうな好物があって、しかも腹が減っているのなら、いくら俺でも飛びつきます。」
 欲しいと思うのは、いつも俺だ。あなたが欲しい。恋しい。触れたい。無防備に近づいて隙を晒し、俺が噛み付けば非難する。俺をどうしたいんです。あなたが欲しいと、泣いて縋れば許してくれますか。考えなしの残酷さで俺を傷つけるばかりのあなたを、どんなに深く恨んでみても、結局俺はあなたが愛しい。
「あなたが好きです、主。…でも、あなたの好きと、俺の好きは違うのかもしれませんね。あなたは優しいから、俺を憐れんで恋人ごっこをしてくれたんでしょう?」
「! ば、ばかにしないでくださいっ…!」
 それまで呆然と俺を見ていた主が、突然大きな声で吠えた。真っ赤な顔と、見開いた目が別人のようで、俺は思わず呆気にとられ、口をつぐむ。主の指が、震えながら俺の胸倉を掴んだ。
「冗談じゃありません! わ、私だって、あなたの事が好きです! 誰でもいいなんて、そんなこと思っていません! だけど、…っだけど!」
 ぶるぶると震えているのは、主の指だけではなかった。腕どころか全身を震わせて、主が唇を戦慄かせている。言いたいことがありすぎて、言葉が詰まったような顔だった。苦しいのに、何から吐き出せばいいのか、分からない。そんな顔で、主が俺の襟首を締め上げる。その目に大きく溜まっていた雫が、とうとうぽろりと一筋流れた。
「だ、だけど! どうしたらいいのかなんて…! こんな風に、人を、誰かを、好きになったことなんて、なかったから…!」
 どんな距離で話せばいいのか、分からない。意を決して傍に寄ってみても、いつものような喋り方しかできない。妙な態度を取ったら、不審に思われるんじゃないか。好きだと言ってくれるのは、「主だから」ではないのか。自分以外の誰かが審神者でも、長谷部はその人を好きになったのではないのか、と。考えれば考えるほど恐ろしくなる。容易に近づくことはできず、私だって苦しかったのに。
 全身を震わせて、泣きながら俺に吐き出してくる主の本音は、どれもこれも俺には嬉しいものばかりで。だから。
「長谷部! 何を、笑っているんですか!!」
「いえ、申し訳ありません。」
「ちゃんと聞いていましたか!?」
「もちろん、聞いています。…聞いたからには、忘れません。」
「…っ!」
 俺を締め上げていた主の手を、そのまま上から覆い尽くす。勢いを失って解けた指に、俺は指を絡ませた。
「主。」
「…なん、ですか。」
「優しくしますから、もう一度口吸いをしても?」
「!!」
「ねぇ、主。」
「ひ、開き直っていませんか。」
「まさか。これでも怯えています。」
「どこが!」
「またあなたに拒まれたくない。」
「う!」
「主。」
「…し、舌は入れないでください…。」
「はは、善処します。」
 主に顔を近づける。泣いた目元も赤くなって、思わず俺は、目尻にそっと唇で触れた。
「う、はせべ。」
「大丈夫。怖くありませんよ。」
「っ、元凶が、何を言うんです!」
「怒らないでください。…あなたが好きです。」
「っ!」
「主。」
 瞬く睫毛が雫を飛ばす。擦り寄った俺の腕の中で、主はまだ震えていた。細い背を、肩を、髪を、俺は何度も撫でて、主を落ち着かせようとその身を抱きしめる。しゃくりあげていた呼吸がおさまり、主の肩から力が抜けるまで、ずっと。
 ようやく主が落ち着いてから、俺はゆっくりと唇を寄せた。少しの間押し当てただけの柔らかな唇に、ちろりと舌を這わせて離れる。途端、落ち着いていたはずの主の肩が、びくりと大きく跳ねて震えた。
「長谷部…っ!」
「舌は入れていませんよ。舐めただけです。」
「!」
 にやりと笑った俺に、主がまた顔を赤くした。まだ俺の胸は苦しい。それでも、この想いが終わってはいなかったのだと、俺たちがちゃんと始まっていたのだと分かって、苦い想いはどこかへ行った。純粋に嬉しかった。恋い焦がれたあなたへの想いで、何度もこの胸を潰しそうになりながら、それでも俺はあなたから離れることが出来ない。こんな想いは抱かなければ良かったと、何度悔やんでも忘れられなかったこの胸の痛みを、もし、あなたも抱えているのだというのなら。
 それはとても尊い奇跡だと、俺は神に感謝しなければいけませんね。