メルティキス



「ありがとう。本当に助かったよ」
 安堵の声を漏らした彼が、少し照れたように笑う。目尻に少し寄った笑い皺が優しく、つられて私も口元を緩めた。納期の迫ったポートレートが思うように形をとらず、彼が焦っていたのを知っていたのだ。
 新製品の広告のため、雇われたカメラマンは甘いマスクの男性だった。三笠総司と名乗ったその人のお世話係を任命されたのは、配属された部署がなんでも屋のようにこき使われる雑用部門だったからだ。アーティストという職業の人間が、気難しくて面倒な人種だと、私の部署の誰もが思っていた。もちろん私も。部内で一番年下の私に、面倒な仕事が押し付けられたのは道理に合ったことだったのだ。だけど蓋を開けてみれば、現れたのは背の高い美丈夫で、私はぽかんと間抜け面で彼を見上げることになった。
 ――お役に立てて私も嬉しいです。
 私と彼はただビジネスで繋がるだけの関係。彼が求めるものを用意して、スムーズな撮影を手助けするのが私の役目。撮影のやり直しをするために探し回ったスタジオでの撮影が、無事彼の納得する形で終えられたことを、私は『お世話係』の立場で喜ぶしかないのだ。いや、喜ぶしかないと、そう思っていた。
「あの、さ。お礼、というか、撮影が上手くいった打ち上げに、今夜食事でもどうかな」
 だから彼の口がそんなことを言ったとき、私はまたぽかんと彼を見上げることしかできなかった。
 ――え。
「きみが忙しいのは知ってるんだ。俺のお世話係だけじゃなくて、普段の仕事もしていただろう? そうやって忙しい中で、俺のわがままに付き合ってスタジオを押さえたり、モデルの子を集めてくれたり、本当に良くしてくれてすごく感謝してる。俺だけじゃ期限に間に合わせることはできなかったかよ」
 その言葉を聞いて、ああ、そういえばこれで彼の仕事は終わったのだ、と私はやっと気が付いた。納品されたいくつもの写真は、これから沢山のショウウィンドウを飾るだろう。私たちはビジネスという繋がりを失くして、もうきっと会うこともないのだ。私は飾られた写真を眺めながら、彼はいまどうしているだろうかと想像することしかできなくなる。
「これは俺からの個人的なお礼だけど、ビジネスの延長だと思ってくれてもいいよ。ただ、本当にきみが嫌じゃないなら、食事を奢らせてくれると嬉しい」
 彼はそう言って、あの優しい目元で真剣に私を見つめていた。私が首を横に振る理由なんてなかった。

 食事は美味しかった。彼が私をエスコートしたのは、家庭的な雰囲気の小さな洋食屋で、私たちは少しずつ料理を分け合ってお腹を満たし、いくらかのお酒を飲んで少し開放的になった。総司さん(そう呼べるくらいに私の気は大きくなっていたのだ)は私が喋る言葉に逐一相槌を打って楽しそうに頷いてくれたから、余計なことまで話してしまった気がしていた。もちろん彼も、いくらか大胆になっていたのだと思う。
「きみはね、すごく似てるんだ」
 総司さんはそう言って、とても優しく笑った。
「いまはもういないんだけど、昔飼ってた猫に似てる。俺を見上げてくるときの顔がそっくりなんだ」
「今だから言うけどね、実は何回も頭を撫でたくなってたんだよ」
「一回だけ、撫でてみてもいいかな?」
 ふわふわとお酒の香りがしていたような気がする。頷いた私の頭に、総司さんの大きな手のひらが伸びてきた。そっと触れた温かい熱が、さらさらと髪を撫でていく。
「きれいな髪だね」
 総司さんの優しい声が心地よくて、頭を撫でる温もりが気持ちよくて、私はうっとりと瞼を閉じてしまっていた。
「……まいったな」
 彼がそんな声とともに手のひらを引っ込めたから、私はようやく目を開いて彼を見返した。うっすらと紅潮した頬のまま、彼が少し上目遣いに私を見ていた。
「俺に撫でられてる時の、きみの顔。ほんとにあの子とそっくりだ。可愛くて、手放したくなくなるよ……」
「えっと、いきなりに聞えるかもしれないけど、俺と、付き合ってくれない、かな?」
 どくん、と心臓が大きく鳴った。
「きみの会社とも、もう契約が終わるし、そうしたらきみとも会えなくなる。それじゃ、嫌なんだ。きみともっと、一緒にいたい。今度は、仕事じゃなくて、恋人として。もっと沢山、きみのことが知りたいよ」
「……どう、かな?」
 ――私、で、いいのなら。
「……はぁ……、よかった……。俺はきみじゃなきゃ、嫌だ」
 再び伸びてきた手のひらが、今度はぎゅっと私の手を握った。
「それじゃ、これからよろしく。俺の子猫ちゃん」
 甘く甘く蕩ける声で、彼は初めて私のことをそう呼んだのだった。

 それからお店を出るまでの間、彼はずっと私を見つめて微笑んでいた。照れくさくて、目が合う度に視線を逸らしてしまう私は、それでもずっと彼の視線を感じていた。一層酔いが回って、頭の中がぐるぐるする。お店を出た後、総司さんは自然に私の手を取った。大きな手のひらは熱くて、私は彼に触れているところから、どんどん熱が高くなっていっているのを感じていた。
 背の高い総司さんは、歩幅も大きくて歩くのが速い。それなのに、私の歩くスピードに合わせてゆっくり歩いてくれていた。私が少しじれったくなるくらいのスピードだったから、たぶんものすごくゆっくり進んでくれていたのだろう。
 帰り道はあまり喋らなかったけど、ドキドキしてそれどころじゃなかった。駅までの道は人通りが少なくて、街灯もそんなに多くない。暗い路地を寄り添って歩いていると、世界に二人だけのような気がした。
「子猫ちゃん」
 囁くような声で、総司さんが私を呼んだ。慌てて見上げると、目が合う前に腕を引かれた。
「ちょっと寄り道して行こう」
 路地から逸れて、総司さんが大股に歩いていく。手を繋いだままだった私は、駆け足になってその後を追った。
 人がいない、夜の公園。その隅のベンチに向かって歩いていく。
 ――総司さんっ。
「あ、ごめん。歩くの速かったね」
 ようやく立ち止まってくれた総司さんに、いえ、と首を横に振ると、唐突に全身が暖かくなった。抱き締められたのだ。
「……ごめん、離れがたくて。あのまま歩いてたら、すぐ駅に着いちゃうだろ」
 ぎゅっと抱き締める腕の力が強くなる。
「ね、キスしてもいい?」
 ――えっ。
「……ダメ? 聞かずにした方が良かったかなぁ」
 ――え、えっと。
「……だめだ、かわいい。もうしちゃうね? ん……、ふ、ちゅっ」
 ――んんっ!?
「ん……は……、くちびる、柔らかい……んぅ……、ね、口開いて。舌、入れるよ……」
 ――っ!?!?!?
「ちゅう…っ、んっ、んぅ…、はっ、かわい……」
 ――っ!!!!!
 唇を割ってきた熱くて柔らかいものが、ぬるりと私の歯を舐めて混乱した。総司さんの大きな手で、しっかり頭を掴まれていて逃げるに逃げられない。ぬるぬると口の中を這いまわるのが、彼の舌だと認識するまで数秒。理解してしまったら、もう頭が沸騰してだめになった。ディープキス、してる。総司さんと。
 息苦しくなるくらい深く舌を入れられて、私はぎゅっと総司さんの腕を掴んだ。縋りついていないと、腰が砕けて座りこんでしまいそうで。ふっと頬を固定していた手のひらが離れた。代わりに、腰に回された腕にしっかりと体を支えられる。やっと唇が離れていった。名残惜しそうに熱い舌が上唇を舐めた後で最後に一度だけ音を立ててキス。
「大丈夫? ……じゃ、なさそうだ」
「がっついちゃったな、急にごめん。……あー…、さっきから俺、謝ってばっかりだ」
「きみと恋人になれたと思ったら嬉しくて。頭に血がのぼったみたいだ。いい年して、おかしいよね」
「……それだけ、きみが好きってことだから。だから、その……」
「……きみも、俺をそれくらい好きになってくれたら、嬉しいよ」
 夜で良かった。真っ赤になった顔を見られなくて済んだから。私はまだドキドキうるさい心臓を抑えるのに必死で、どう返事をして良いか分からなかった。だけど一つだけ、これだけは言いたくて。
 ――私も、すき、です。
 言わなくちゃと思ったら声になっていた。一瞬、総司さんが息を飲む気配がした。失敗だったかな、と思ったのはそのすぐ後。
「ごめんもう一回だけ許して」
 有無を言わさず深くて長いキスが落ちてきて、私はまた酸欠で苦しむことになったのだった。