メリークリスマス、そして



「長谷部さん、すみません! これもお願いします。」
「ああ。」
 昼下がりの眠気がようやく薄らいだ午後2時50分。年末も迫り、世間がどことなく忙しなくなるこの頃、長谷部国重が務める銀行も客の訪れが普段より多く、担当外の仕事や雑用なども回ってくるほど慌ただしい。窓口が閉まる3時を目前に、今も正面から駆け込んできた客がいた。時間に余裕をとどれだけ頼んでも、こういう客はいなくならないものだ。後輩から渡された書類を処理するため、長谷部が立ち上がった時だった。
「う、動くな!」
 上擦った男の声が行内に響く。何事かと視線を巡らせると、首元にナイフを突きつけられた女性客が、ぽかんとした顔で男に羽交い絞めにされていた。きゃあぁぁ、と別の客が叫ぶと同時に、うるせぇとまたその男が叫んだ。途端に周囲を緊張が包む。強盗。こんな時期に。しかも客を人質に取られるなど、一番許しがたいパターンだ。顔を強張らせた行員たちが、おそらく内心でそう毒づいていたとき、長谷部ひとりは人質の客同様にぽかんと間の抜けた顔を晒していた。
「…ある、じ…?」
 思わず口をついて出た言葉に、自分自身でハッとする。強盗犯は緊張と興奮で気が焦っているらしく、ロビーにいる女性行員に向けてナイフを振り回しているところだった。状況は良くはない。長谷部は犯人の視線が外れた隙にさっとしゃがむと、デスクの間を通って犯人の死角となりかつロビーが見える位置に移動した。
 野球帽を目深にかぶり、マスクをした犯人は控えめに見ても初老の男だ。背はそれほど高くなく、ヒールを履いている人質の方が高いほど。しかし人質の女性客は買い物帰りらしく、手にした荷物で身動きがとれていない。どことなく高いヒールも履き慣れていないように見えた。行き当たりばったりのようにみせて、案外よく計画を練っているのかもしれない。
 そう。その人質である。
 長谷部は犯人よりむしろ、その人質から目が離せなかった。パーマのかかった柔らかそうな栗色の髪。今は犯人に振り回されて困惑した表情ながら、穏やかに微笑まれば昇天しそうな心地がすることを長谷部は知っていた。主。主だ。人に生まれ変わってから、幾度となく雑踏を探し、この世界のどこかにいてくださったらと願った人が今、目の前にいる。しかし喜びは次第に怒りへと変わっていった。犯人の男が、主にずっと抱きついていたからである。男はナイフの先を主へと向けながら、手にしていたボストンバッグを床に放り投げ、金を入れろと要求している。へっぴり腰の女性行員が恐る恐る鞄を手にして、窓口のほうへかけていった。その間も、男は主を抱き締めたままなのだ。
(くそ…っ、あの男…! 俺の主になんと不届きな…!!!)
 ギリ…ッと奥歯を軋ませながら、飛び出しそうになる体を抑えて長谷部は機会を窺った。何か、ちょっとしたきっかけでいい。男のナイフが主から離れるか、気がそがれてくれたなら。
「あ!」
 声をあげたのは主だった。声がしたほんの数秒後、小さな箱が足元にぐしゃりと落ちる音がした。犯人の男が大きく体を振ったからだろう。主が手にしていた荷物の一つである。それはささやかな大きさながら、きれいなロゴが長谷部のいる場所からもよく見えた。近所の有名なケーキ屋のそれだ。そういえば今日はクリスマスだった。昼食時に外へ出たとき、恐ろしいほどの行列ができていたことを思い出して長谷部は瞠目した。あの列の中に、主がいたのか。もっと注意して見ておけば良かった。
「ちょっと、おじさん! なんてことするの!!」
 主の悲鳴はまだ続いた。男がその箱を蹴飛ばしたのだ。それまで大人しかった人質に叫ばれ、男が僅かに怯んだ気配がした。主が身を捩って男を睨みつけている。
「何時間並んだと思ってるの!? めちゃくちゃ高かったのに…! どうしてくれるのよ! しかもこんなことされてたら待ち合わせに遅れるじゃない! いい加減に離してよ!」
「う、うるさ、」
「さっきから煩いのはどっち!? 耳元で大声で叫ばないで!! 人の迷惑考えなさいよね!!!」
 迫力負けである。男は主の剣幕に完全に呑まれ、怯んだ腕が下がっている。いまだ。
 低い位置から飛び出した長谷部に、男が気付いたのは足音のせいだろう。こちらに視線が向いた時には長谷部の手が男の首根っこを掴んで主から引き離し、男が悲鳴を上げる前にその腹に回し蹴りが入っていた。吹き飛んだ男の体が床を滑って柱にぶち当たる。長谷部の後から飛び出してきた男性行員たちが男を押さえつけ、事務所の奥で警察に電話する声が聞こえる中で、長谷部はゆっくりと主を振り返った。主はまた、ぽかんとした顔で長谷部を見ていた。
「お怪我はありませんか。」
「えっ! あ、はい、どうも、ありがとうございました。」
「いえ、こちらこそこのようなことに巻き込んでしまって…申し訳ございません。あの、ケーキ、ですが…。」
「あっ!」
 一瞬のことで忘れていたのだろう。主は慌てて箱を拾い上げ、中を確認して肩を落とした。長谷部がちらりと箱を覗くと、二人分のケーキが見えた。
「あ、あ〜…ぐちゃぐちゃ…。せっかく買えたのに…。」
「ご家族で召し上がる予定だったんですか?」
 めかし込んだ主の姿に、長谷部はドキドキと心臓が鳴るのを感じた。やっと出会えたはいいが、既に彼氏持ちという可能性があるのだ。指輪はついていないから、結婚はしていない。と信じたい。
「いえ、親友とふたりでクリスマス会をやる予定で…。私、ケーキを準備する役になったから、張り切ってたんですけど…。今からじゃもう、間に合わないなぁ…。」
 がっくりと肩を落とした主のつむじを見下ろしながら、長谷部は緩みそうになる口を押えて、こほんと咳ばらいをした。喜んではいけない。しかし、主はフリーだった。これが喜ばずにいられようか。にやけるな、長谷部国重。心の中で何度も自分を戒めながら、長谷部はゆっくりと口を開いた。
「その店ほど有名ではありませんが、ケーキ屋ならこの銀行の裏のアーモンドという店が美味いですよ。」
「え?」
「嘘だと思われるなら、訊いてみましょうか。田中さん、すみません。」
 ざわざわと混乱する行内で、比較的暇そうに見えた女性行員を呼びつける。ぱたぱたと駆け寄るようにやってきた彼女は、きらきらとした目で長谷部を見上げた。一歳年上の田中さんは、行内で格闘技マニアと有名だ。人選を誤ったかもしれない。
「長谷部くん、さっきの回し蹴りすごかった!! どこであんなの覚えたの!? もしかして格闘技やってる!?」
「いや、その話はまた今度…。それより、お客様がケーキ屋を探されているんです。このあたりで美味しい店というと、アーモンドくらいしか思い当たらないんですが、他にもいいところありますか。」
「あー、ケーキ屋さんですか! それなら、私もアーモンドがオススメです!!」
 主が手にした箱を一目見て、田中さんはにっこりと笑った。
「そのお店より、私はアーモンドのほうが美味しいと思いますよ。デザインは劣るかもしれませんけど。」
 田中さんの笑顔につられるように、主が笑った。ふわりと。あ、あ。この笑顔だ。
「本当ですか。それじゃ、そのお店に行ってみます。ありがとうございます。」
「警察が来ると事情聴取で時間を取られますから、もう行ってください。」
「え、長谷部くん、それいいの?」
「いいんですよ。この騒動で待ち合わせに遅れるかもしれないんでしょう。早く行ってください。」
 長谷部に促されて、主は何度も何度も頭を下げながらロビーを出て行った。後に残された長谷部を、田中さんが見ている。
「…長谷部くんの好みってああいうタイプだったんだねー。」
「ぐっ!」
「うはは、さっきから顔がにやけてるよ〜。へぇ〜。それで? ちゃんと連絡先聞いた??」
「っ!」
「え…。」
「…。」
「えぇー…。ちょっと長谷部くん…。」
 頭を抱えてしゃがみ込んだ長谷部を、田中さんがしょっぱい顔で見下ろしていた。