満ちたりて、まる



「長谷部? 長谷部、いないの?」
 主が呼ぶ声がする。呼ばれているのは俺ではないけれど、しばらく待っても呼ばれた本人は現れないようだ。出陣にも遠征にも出掛けていないはずなのに珍しい。代わりに俺が、主の呼ぶ声に答えるとするか。
「ありゅじ?」
「あら」
 いそいそと主の前に出た俺に気付いて、廊下を歩いていた主は足を止めてしゃがみ込んだ。俺の顔の位置まで視線を下ろしてくださるのだから、俺の主はお優しい。
「どうしたの、はしぇべ?」
「おおきいおれを、おしゃがしですか?」
「ええ、そうなの。万屋に行こうと思って。あなた、長谷部を見かけたかしら?」
「いいえ」
「そう。どこに行ったのかしらね」
 少し困ったように、主が眉根を寄せられた。主に心配をおかけするなど、あるまじきことだ。大きい俺め。いくら主と恋仲といえど、後で仕置きが必要だな。
「おれが、おともします」
「ええ?」
「よろじゅや」
「まぁ。でも結構遠いわよ?」
「はい。おまかしぇください。おおきいおれなどいなくても、おれがりっぱに、ありゅじをおまもりします!」
 胸を張ってそう言えば、主はにこにこと顔を崩して、俺の頭をくしゃくしゃと撫でられる。主の柔らかい手に撫でられるのは、いつもとっても気持ちがいい。
「そうね。重い物を買いに行くわけじゃないし、長谷部がいないんだもの。今日は、はしぇべにお願いしようかな」
「はい!」
「ふふふ、いいお返事。それじゃ、先に玄関で待っていて? お財布を取ってくるわね」
「はい!!」
 俺はもと居た部屋にそそくさと戻り、俺専用の刀を腰に差して玄関に向かった。広い本丸は初夏の風がよく通るように、あちこちの戸が開け放たれている。座敷を通して反対側の庭まで吹き抜ける風が、俺の前髪も揺らしていった。外は晴天。少し前まで梅雨空だったのが、いまは雲の少ない見事な青空が広がっている。遠く、道場から気合の入った声が聞こえていた。内番の連中だろう。穏やかで、温かい。俺たちの、本丸。すべて主が俺たちにくださった、かけがえのない場所だ。
「おい、どこに行く」
 廊下を走って玄関に向かっていると、俺の足音を聞きつけた山姥切国広が現れた。えんじ色の内番服を着て、野菜籠を持っている。畑当番のようだ。怪訝そうに首を傾げたそいつに、俺は胸を張って答えた。
「よろじゅやだ! ありゅじの、おともだ!!」
「はぁ? 長谷部はどうしたんだ」
「ありゅじもおしゃがしだったが、どこにもいない」
「珍しいな。呼ばれなくとも主の傍を離れないあいつが…。それで、お前のほかには誰が出るんだ?」
「ほか?」
「…まさか、お前だけとは言わないだろう?」
「?」
「…正気か? 待っていろ、誰か手の空いている者を呼んでくる」
「ひつようない」
「あ、おい!」
「ありゅじは、おれがおまもりしゅるんだ!」
 俺は先ほどの風のように、山姥切国広の足元を通って玄関に向かった。
 本丸の玄関はとても広い。古式ゆかしい日本家屋だからだろう。広い土間に高い上がり框。小柄な俺は、上がり框に腰を掛けても土間に足が届かない。そのため、俺専用の踏み台として、端のほうに四角い石が置かれている。そこにあるのは俺の外出用の靴だ。足をつっかけ、踵を靴に収めると、俺は土間の隅に置かれた傘立てから、主の日傘を掴んで抱えた。他の雨傘に比べれば小さいながら、俺にはそこそこ大きく感じる。白いレースの付いた華やかなそれは、大きい俺が主のために買い求めた物だった。俺がそれを上がり框に置いたとき、廊下から静かな足音が聞こえてきた。
「ありゅじ」
「あらあら、日傘まで用意してくれたの? ありがとう、はしぇべ」
 外出用の小さな手提げ鞄を持った主は、俺の姿を見てまたにこにこと微笑んでくださった。主はいつもそうだ。俺を見て、俺のために優しく笑ってくださる。優しい主。俺がお守りしなければ。
 主は草履に足を通し、手提げを持ったほうの手で、日傘を開いて肩に掲げた。軒下から一歩出ると、白い日傘を透かして強い日差しが主の姿を浮かび上がらせる。主は俺を振り返って、空いた手をすっと伸ばしてくださった。
「さぁ、はしぇべ。手を繋いで」
「はい!」
 たおやかな白い指に、俺は精いっぱい手を伸ばした。
「さっきね、玄関の少し手前で、切国に会ったんだけど、はしぇべとふたりで万屋に行くって言ったら怒っちゃって」
「やまんばぎりには、おれもあいました」
「そうだったの? ふふ、心配性よね。ちょっとお買い物して、帰ってくるだけなのに」
「そうですね」
「はしぇべ、暑くない?」
「だいじょうぶです。ありゅじは?」
「はしぇべの用意してくれた日傘があるから、とっても快適よ」
「おやくにたてたなら、よかったです」
 主と手をつないで、てくてくと道を歩いていく。本丸から出てしばらくは、日陰が少ない道だが、もう少しすれば並木道に当たる。そこまで行けば、日陰が多いから歩きやすくなるだろう。並んだ位置の関係で、今も俺は主の陰に入っているから、そう暑いとは思わなかった。
「きょうは、なにをかいにいくんです?」
「前に注文した品が届いたらしいの」
「ちゅうもん?」
「ええ、いつもお世話になっている人への、贈り物よ」
「おおきいおれですか?」
「ふふ、違うわ。長谷部は何をあげようとしても受け取ってくれないもの」
「あれは、いしあたまですからね」
「あら、そんな風に思ってるの? でも長谷部は優しいわよ? 誰より情が深くて、いつもみんなのことを考えてくれてる」
「…しってます」
 大きい俺の話をするとき、主の表情はいつもよりずっと優しくなる。大きい俺も、そうだった。ふたりは好き合っていて、お互いを必要としていて、傍から見てもお似合いのつがいだった。人と刀という相容れない立場ながら、出来ることならふたりには幸せになってもらいたい。口が裂けても大きい俺には言ってやらないが、ふたりがもしも、ただの人であったなら。血なまぐさい戦になど携わる必要もなく、ただ穏やかに暮らし、子を為し、年老いて寄り添っていけたならと思わずにはいられない。望むことも愚かな願いだとは知りながら。俺はぎゅっと、主の手を握りしめた。
「どうしたの、はしぇべ?」
「なんでも、ありましぇん」
「疲れたのかしら?」
「いいえ。はやく、よろじゅやにいきましょう!」
「急がなくても、万屋は逃げないわよ。それにあんまり慌てたら、危な、」
「あっ!」
「はしぇべ!」
 主の言葉が終わらないうちに、俺は大きな石に躓いてすっころんだ。主の手を離して、鼻から地べたに突っ込んでしまう。したたかに顔を打ち、膝をすり剥き、服を汚して、あっという間に惨めな俺の出来上がり。
「う…っ」
「はしぇべ、大丈夫!?」
 日傘を放り出して、主がすっ飛んできた。起き上がった俺の顔から砂を払い、擦れた膝や手の汚れを払って、心配そうに顔を覗き込まれた。痛い。痛いし、格好悪い。思わず潤んだ俺の目を見て、また主が慌てている。
「は、はしぇべ? 痛いのはお鼻かな? ね、痛いの痛いの、飛んでいけ〜〜!」
「うぅ、あ、ありゅ、じ」
「うん?」
「しゅ、しゅみま、しぇ…っ」
「わー! いいの、いいのよ! 私こそごめんね? もっとゆっくり歩けば良かったわね」
「うう…」
「はしぇべ、大丈夫。大丈夫よ!」
 主がぎゅっと、俺を抱き締めてくれる。ふわりと優しい香りがして、俺は主にしがみついた。背中をぽんぽんと叩かれ、温かく柔らかい腕でぎゅっと抱き締められて、喉元まで出かかった嗚咽がすぅっと引いていく。
「…落ち着いた?」
「…はい」
「本丸に戻って、手当てしたほうがいいかしらね」
「いいえ、よろじゅやにいって、もどってからでいいです」
「でも」
「しゅみません、ありゅじ」
「…大丈夫なの?」
「はい」
「だったら、もうちょっとゆっくり歩きましょう」
 再び主と手を繋いで歩き出す。言ったとおり、主はさっきよりさらにゆっくりとした足取りで進まれた。俺も、足元には注意して、石を避け、窪みは飛び越えて前に進んだ。万屋には、これまでも出掛けたことがある。だけどそれは、蜻蛉切や、岩融などの大きい連中に担がれて出向いたことがほとんどで、こうして自分の足で歩くと思った以上に距離があるのだと痛感する。もっと大きい体だったなら、主のお手をこうも煩わせずに済んだのだろうか。
 道のりの半ばを過ぎた頃、急に主が足を止めた。それまで足元ばかり気にしていた俺は、ぐんと手を引かれて慌てて主を振り仰いだ。緊張した面持ちで、主は前方を見据えている。その視線の先を追って、漸く俺は事態を把握した。
 道の向こうに、ゆらりと大きな影が三つ。野犬である。毛並みのよろしくない三頭は俺より一回り大きい体をゆらゆらと揺らしながらこちらに近づいてくる。主はゆっくりとした動作で日傘を畳むと、俺の体に手を回して抱き上げてしまわれた。
「あ、ありゅじ?」
「しー、落ち着いて。ゆっくり、後ろに下がりましょう」
「お、おろしてください!」
「駄目よ! そんなことをして、はしぇべが噛まれたりしたら…!」
 強張った顔で主はそう言うと、じりじりと後ろに向かって後退りを始めた。けれど犬の方が進みが速い。その姿はあっという間に大きくなって、グルグル唸る声まで聞こえた。
「ありゅじ!」
「あ、こら!」
 俺は主の手を振りほどき、野犬に向かって仁王立ちになる。腰から刀を鞘ごと抜いて構えたのは、小さくても俺の刀が本当に切れ味鋭いものだからだ。俺はまだ、生き物を斬ったことがない。
「ちかぢゅくな!」
 大声を張り上げると、犬どもはさらに唸り声を大きくした。頭を低く下げて、こちらに飛び掛かろうという様子を見せている。俺は足元にあった石を拾って、犬の鼻づらめがけて投げつけた。
 かつん、と乾いた音がした。犬が石を避けて飛び退ったのだ。そのまま、そいつは後ろ脚をばねにして、こちらに向かって大きく跳躍した。あの前足が地に着けば、大きな顎が俺に向かって開かれるだろう。例え俺は噛まれても、主にはその爪ひとつ、かけさせはしない。
「はしぇべ!!」
 主の悲鳴に重なって、がつ、と大きな音がした。俺の目の前に、大きな金の鞘が見える。ひらりと翻った赤い鮮やかな紐。ぎゃん、と悲鳴を上げた犬が、地べたに転がって呻いていた。俺と、主の前に立ったのは。そいつは。
「長谷部!?」
「…こんなところで、何をなさっているんですか、主」
 呆れたような声をあげたのは、主と恋仲の、大きい俺だった。片手に包みを抱え、もう一方に鞘のままの刀を掴んでいる。あれで犬を殴ったのだろう。倒れた犬はまだ悶えていて、その後ろで残りの二頭がうろうろとこちらの様子を伺っていた。
「おい、お前。これを持て」
 大きい俺が、持っていた包みを俺に持たせて後ろに押しやる。慌てたように主が俺を抱き締めて抱え上げた。
「長谷部」
「すぐ片付けます。主は下がって」
「おい!」
「お前も大人しく下がっていろ」
 すらりと俺たちの前に立つ背中は大きい。白い手袋が陽を弾き、金色の鞘はきらきらと輝くように光っていた。その鞘から、白刃が現れ、さらに眩しく光を反射する。野犬どもは、大きい俺が刀を構えるのを前にして、明らかに怯んでいた。
「さぁ、貴様ら。俺の主に牙を剥いたこと、いますぐ後悔させてやろう」
 低く呟いた大きい俺が、刀を握り直す。途端、野犬どもはしっぽを巻いて逃げ出した。打たれて転げていた一頭も、よろよろと起き上がって先に駆けていった仲間の後を追っていく。奴らを退かせたのは、刃の鋭さだったのか、それとも大きい俺の視線の強さだったのか。いずれにせよ脅威は去った。主に抱き締められていた俺は、その肩から緊張が抜けるのを感じた。
「主。大丈夫ですか」
「ええ。ありがとう、長谷部」
「伴もつけず、どうなさったんです」
「万屋へ、行こうと思って。…ふたりで、大丈夫だと思ったのよ」
 大きい俺の視線に耐えかねたように、主が目を伏せる。主はしょんぼりと項垂れたが、悪いのは主だけではないのだ。俺は慌てて大きい俺に抗弁した。
「お、おれが! おれがありゅじをおまもりしようと!」
「お前が?」
「おおきいおれがいなくても、おれがありゅじをおまもりしたぞ!」
「…どうだか。お前では、無傷でここを抜けることは出来なかったに違いない」
「なんだと!」
「己の力量くらいは分かれ。たとえ主に傷が付かずとも、お前が怪我をすれば主が悲しむんだ。主を悲しませる奴は、誰であろうと俺が許さん」
 ぐしゃ、と俺の前髪を掴むようにして、大きい俺が俺を覗き込む。
「いいか、分かったな?」
「ぐ…」
「主も、です。せめて伴の一人を付けて出てください」
「う、ごめんなさい」
「分かってくださればいいのですよ。さぁ、本丸に戻りましょう」
「ま、まて! まだよろじゅやは!」
「万屋? 主の用なら、済ませてきました。注文の品を取りに行かれるところだったんでしょう? それなら、いまそいつが持っている物ですよ」
 主と俺は顔を見合わせて、揃って俺が持っている包みに目をやった。俺の両手で抱えられるそれは、柔らかい布のようだ。
「声をかけずに出掛けたことは申し訳ありません。それほど時間もかからないと思ったもので。店が混んでいて待たされたのは、計算外でした」
「そう、だったの」
「それとも、他に何か入用のものが?」
「ううん、これだけよ」
「ありゅじ」
 伺うように声をあげた俺へ、主はふふっと柔らかく微笑んだ。それは今まで俺に向けられたものより、いくらか温かく、さらに柔らかい。大きい俺が傍にいるからだ。
「それは、はしぇべが持っていて。本丸に戻ったら、一緒に開けてみましょう」
「だれかへの、おくりものでは…?」
「ええ、はしぇべ。あなたへの贈り物よ」
 俺はきっと、きょとんとした顔をしていたのだろう。俺を抱えていた主が、ぎゅっと俺を抱き締めた。持っていた包みごと、主の胸に押し潰される。
「さっきは守ろうとしてくれて、ありがとう。はしぇべがいてくれて、私はほんとうに幸せなのよ」
 ちゅ、と主の唇が頬に触れた。途端、俺は顔に火が付いたようになって、思わず手の中の包みをぐしゃぐしゃにしてしまった。大きい俺が、不快そうに眉を顰めて俺を見ている。主に抱き締められたまま、俺は消え入りそうな声で礼の言葉を口にした。
「もう、いいでしょう」
 大きい俺が、ひょいと主から俺を取り上げた。柔らかい主の腕から、がっしりとした逞しい腕の中へ。抱き心地は主の方が気持ちいいが、大きい俺の安定感は抜群だ。驚いたような顔で、主がこちらを見ていた。
「お、おろせ!」
「いつまで主に負担をかけるつもりだ」
「あら、長谷部。私なら大丈夫なのに」
「何を仰るんです。こんなものを主に持たせて、俺が手ぶらでいるわけにはいきません」
「こんな、ものぉ?」
「フン。その短い脚でちんたら歩く誰かに、歩みを合わせてやるほど、俺は寛容ではないんでなァ?」
「おおきいからって、いばるな!」
「小さいよりましだ。おい、暴れるな」
「うるしゃい!」
「耳元で叫ぶな。お前のほうがうるさい」
「ふふ。あはは」
 主が俺たちを見て可笑しそうに笑っている。怪訝に思って見返すと、主はやけに嬉しそうな顔をしていた。
「主?」
「ふふ、そうやって見ていると、あなたたち本当に親子みたいよ」
 俺も、大きいのも、豆鉄砲をくらったような顔になった。主が日傘を抱えて大きい俺のそばに寄る。俺を抱えた腕とは反対側に寄り添って、にっこり俺と大きい俺に微笑みかけた。
「こうして並んでいたら、私もお母さんに見えるかしら」
 大きい俺と、小さい俺。そして主がお母さん。それでは、まるで。ただの幸福な親子である。
「…かおがあかい」
「うるさい…」
 大きい俺が耳まで真っ赤になりながら、抱えた俺の荷物にぽすりと顔を埋めてきた。
「あら、どうしたの、長谷部」
「てれてます」
「あら」
 赤い顔の父親と、幸せそうな母親に連れられた俺はきっと、きっと、とても幸福な子どもなのだろう。
 本丸に戻った俺が包みを開けると、出てきたのは夏服だった。なかなか合う大きさが見つからず、いっそ作ってしまえばいいと言ったのが、大きい俺だったということは、あとでこっそり、主から聞いた。