夏の終わりの



 どん、と太鼓の音がひとつ。響いた音が消える間際に、また次の音が聞こえる。重なっていく音は物理的に空気を振動させて、胸のあたりへどこどことぶつかってくる。櫓の前に並べられたいくつもの宮太鼓が、跳ねるような音の波を作っていた。
「待たせたな」
 不意に耳のすぐそばで、低い声が聞こえて飛びあがりそうになった。長谷部さんである。先に私を車から降ろして、一人駐車場を探しに行っていたのだ。重い仕事鞄は車に置いてきたのだろう、長谷部さんは手ぶらの身軽な格好で、私の耳元へ屈んで顔を寄せていた。近い。
「く、車! ちゃんと停められました?」
「ああ。ちょっと距離はあるが、祭り用に特設の駐車場が作ってあった。それより、何か食べるんだろう?」
「あっ、はい。たこ焼きだけ買っておきました。食べますか?」
「ああ、もらう」
 長谷部さんのために、ベンチの端を空ける。櫓を扇状に囲むように、沢山並べられた木のベンチには、まだそれほど人は多くない。これから人が増えるのだろう。夜七時を過ぎた空は山の端に太陽の名残を見せて、まだ夜に染まりきってはいなかった。
 長谷部さんと並んでたこ焼きをつつくなんて、今朝の私が知っていたら驚いただろう。長谷部さん。長谷部国重さん。いまは同じ会社の先輩だけど、私は人に言えない記憶を抱えている。いつの時代か、ずっと昔。それともほんの少し前。いつとも知れない夢のような場所で、長谷部さんは私に仕える刀だった。――なんて言うと、どこの頭の悪い女だと思われるから言わないけど! たとえ昔、長谷部さんが私の刀で、私の恋人だったのだとしても、今ここにいる長谷部さんは刀のへし切長谷部とは違うのだ。私にはいつかと同じように、愛しい魂が見えるのだとしても。そして私は、また彼に恋をしている。
「はぁ、生き返る…」
「夜店のたこ焼きって美味しいですよね」
「腹が減ってるから美味いんだろう?」
「お店の人怒りますよ」
 長谷部さんはきっちりパックの半分を食べて楊枝を置いた。まだ物足りないに違いない。物色するように周りのお店の看板に目を移している。
「焼きそば、いきますか」
「いいな。それと、牛串が食べたい」
「私は豚かな」
「共食いか」
「これでも夏痩せしてますから! あとそれセクハラです」
「すまん」
 デリカシーのないところが玉に瑕だけど、長谷部さんはうちの会社では出世頭である。私より三つか五つか、それくらいしか年は違わないのにもう課長補佐だし、このデリカシーのなさを上手く隠して商談事では巧みに相手を自分のペースに乗せてしまう。一度長谷部さんに捕まったら、ほとんど手が出ないまま契約を結ぶことになるから恐ろしい。裏ではこっそり蟻地獄の長谷部だの、鳥もち長谷部だのとあだ名されていることを私は知っている。
 その長谷部さんと何で夏祭りに来てるのかって、商談帰りの寄り道なのである。お腹が空いていたのである。考えてもみて欲しい。長時間にわたる商品デモとその後の商談会議を終えて、さらに片道三時間のドライブで帰社するのだ。途中でご飯を食べようかと話している最中にお祭りが現れてみたとする。行きたくなるのが人情というものではないだろうか。私が騒ぐといつもは呆れる長谷部さんも、今日はすぐに賛成してくれた。よっぽどお腹が減っていたのだろう。
「ビールが飲みたい……」
 飲み欲の方だった。
「飲酒運転は懲戒免職ですよ」
「分かってる。……どうしてお前は免許持ってないんだ」
「いえ、持ってます」
「ペーパーは無免許と同じだろう」
「ちょっとそれ酷いです。全国のペーパードライバーを今敵に回しましたよ!?」
「目の前にいるお前くらいしか反論してこないから怖くない」
「味方連れてこないと!」
「それよりビール」
「駄目です! それとも、長谷部さんは私の運転で帰るつもりですか!」 
「それは確実に死ぬな」
「ですよね。つまりビールは諦めるしかありません」
「ちっ」
 綺麗な舌打ちを残して、長谷部さんが立ち上がった。
「焼きそば買ってくる」
 さっさと歩き出した長谷部さんは人混みにまぎれてしまった。仕方なく私も立ち上がる。牛串と豚串を買ってこよう。


   *** ***


『おい、どこにいるんだ』
「櫓から一番遠い串屋さんです! 思ったより列が長くて! いま買えました! 長谷部さんどこですか?」
『さっきのベンチの近くだ。もう席は取られてるぞ。なんで動いてるんだ』
「す、すみません」
 うかつだった。人が増えたお祭り会場で、櫓前のベンチはもうほとんど埋まってしまっている。それほど探すまでもなく、長谷部さんはすぐに見つかった。不機嫌そうに見えるけど、これが地顔だから大丈夫だ。それより焼きそばを持ってる姿が少しシュールな気がする。あの長谷部さんが、焼きそばを持って立っている。思わず笑ったら睨まれた。
 仕方なく私たちはぐるぐると会場を回って、運よく丁度いい石垣を見つけ、そこに腰を下ろした。そこは灯りが少ないお祭り会場の隅のほうで、夜店からも離れているから人も少ない。静かだからか、りーりーという微かな虫の音までよく聞えた。もう秋の虫が鳴いているのか。
「もっと先のことを見越して動くようにしろ」
「はい、すみません」
「目先のことばかりに気を取られて、余計な仕事を増やすのがお前の悪い癖だぞ」
「はい」
「……いや、今くらい仕事の話はやめるか。焼きそば、食べるだろう?」
「ありがとうございます。いただきます。あっ、これ牛串、長谷部さんの分です」
「ああ、ありがとう」
「それとこれも」
「……あのなぁ」
 牛串を手にした長谷部さんがため息をついた。余計に飲みたくなるだろう、と言われても、他になかったのだから仕方ない。まだ冷たい瓶を受け取って、長谷部さんは呆れたように鼻を鳴らした。
「全然違うぞ」
「ほら、炭酸つながりで」
「それしかないじゃないか」
「喉は潤いますよ」
「ノンアルコールとかなかったのか」
「いやだってあれ、美味しくないって。長谷部さん前に言ってたじゃないですか」
「まぁ、確かに美味くはないな」
 長谷部さんは串を口に咥えると、ラムネ瓶の包装を解いて足元に固定した。飲み口に付いていたプラスチックをぐっと天辺に押し込む。ぽん、と軽快な音とともに、しゅわしゅわと中身が噴き出して長谷部さんの手を濡らした。
「わ、すみません、瓶振っちゃってたかも…!」
「いや、内圧で噴き出してるだけだ。ああ、もっとちゃんと押さえてれば良かったな」
 串を手に持ちなおして、代わりに長谷部さんはぽたぽたと濡れた手のひらを唇の先で啜った。あまい、とそのままの姿勢で言われて、なぜか私が赤面する。見ていられなくて焼きそばに目を移した時、もう一度「あまい」という長谷部さんの声が聞こえた。からん、とビー玉が瓶の中で音を立てる。気になって顔を上げると長谷部さんが瓶に口をつけるところだった。浮き上がった喉仏がごくりと動いて嚥下する。途端、長谷部さんはぐしゃりと顔を歪めた。
「やっぱり甘いぞ。もうこれお前が飲め」
「え!」
「買ったのはお前だろう。ほら、責任持って片付けろ」
「ええっ!」
 飲みかけの瓶をぐりぐりと私の手に押し付けてくる。長谷部さんはそうして片手を空にして、美味しそうに牛串を齧り始めた。
 長谷部さんがしっかり口をつけた瓶である。それどころか飲み口をちらりと舐めていたような気さえする。まだ中身が半分も残っているのに。これを。私が。飲むの。え、本当に?
「どうした飲まないのか?」
「い、いただきます……」
 じっと見つめられて、飲むしかない雰囲気にされてしまった。
「ほーら、一気、一気」
「そういう煽りはやめてください! アルコールの一気飲みには、悪影響しかありません!」
 これはアルコールじゃないんだけど。割と本気で怒ると長谷部さんは素直に口を噤んで、私の発言のおかしさにもツッコミを入れなかった。とはいえ、私が飲むのを期待している様子はちっとも変わらない。無言でこちらを見られると、無駄にプレッシャーがかかるのだ。やめてください。ええい、ままよ!
「っん、んくっ、んっ!」
 ごっきゅごっきゅと喉が鳴る。長谷部さんに言われたわけではないけれど、のんびりちまちま飲んでも恥ずかしいだけである。一気に瓶の残り(と言っても内容量はそれほどでもない)を流し込んだ。
「っぷは!」
「すごい飲みっぷりだな。しかもビー玉の扱いが上手い」
「ほ、褒められても嬉しくないです!」
「それで?」
「え?」
「どうだった? 俺との間接キス」
 にやりと笑って。長谷部さんがさらりと言った。今の私に、このジョークは笑えない。
「っ!」
「……おい」
「っ、み、見ないでくださいっ!」
 暗がりでも分かるだろう。私が茹でだこのように赤くなったことが。一気に顔が熱くなったことは、私が一番分かっている。腕で顔を隠そうとすると、手にした瓶がからんからんと音を立てた。ビー玉が暴れている。私の心臓も暴れている。
「すまん。悪乗りした」
 だからどうしてこんな時だけ。
 そんなに優しい声を出すのだろう。
 赤くなった顔はなかなか治まらず、いたたまれない空気の中で豚串を齧る。串肉と焼きそばを食べる間、私達はずっと無言だった。そろそろ食べ終わるという頃、目の前を浴衣姿のカップルが通り、繋いだ手が目の前を横切った。ずっと昔、私たちもあんな風に手を繋いでいたのだ。決してほどけないよう、指を絡めて。羨ましい、と思った。今の私たちは、こんなちいさな瓶ひとつを介してしか、唇も触れ合わない。好きだと思う気持ちを、素直に表に出すことができないのは辛かった。いっそ言ってしまおうか。隣の様子を伺うと、驚くほど真っ直ぐにこちらを見ている長谷部さんと目があった。
「!?」
「ああいうのが、羨ましいのか?」
「えっ!」
「随分と熱心に見てたじゃないか」
 顎をしゃくって、カップルが去っていった方を示しながら、長谷部さんは私から目を逸らさない。
「べ、つに。ていうか何ですか、その『羨ましい』って」
「せっかくの夏祭りだ。俺なんかじゃなくて、彼氏と来たかったんだろう? 悪かったな。口うるさいのが一緒で」
 長谷部さんはそう言うと、食べかけだった焼きそばに視線を戻した。なんなんだ。自嘲めいた口調は、どこか拗ねたようにも聞こえて、私はぽかんと長谷部さんを眺めてしまった。
「……いませんよ」
「ん?」
「彼氏。いま、いません」
 今どころか、生まれてこのかたいたためしはないけど、そこまで言わなくてもいいだろう。長谷部さんは焼きそばを飲みこみながらこちらを見上げ、最後のひとくちをごくんと飲みこんでから声を上げた。
「へぇ」
「む。ちょっと馬鹿にしました?」
「被害妄想だな。そんな風に聞こえたか?」
「聞えました!」
「ははっ、本当にそんなつもりはない。つい、嬉しくて」
 長谷部さんは妙に朗らかに笑うと、ついと手を伸ばして私の指を掴んだ。
 え。
「まだ俺に、希望があるってことだろう?」
 絡みついた指先の熱で、私は再びぽかんと間抜けな顔をしていた。きゅっと少し強く手を握られて、大袈裟に肩が跳ねる。その時、長谷部さんの顔が明るく照らされた。一瞬遅れて轟くような音が続く。花火。ひゅるひゅる新しく打ちあげられる夜空の大輪を、今はまったく見上げることができない。
 私はどうしようもなく熱くなった顔のままで、ずっと長谷部さんと見つめ合っていた。