定点観測



 部屋のドアが開いた。誰かが入ってくる。見知った人だ。誰かなんて、一人しかない。まっすぐに玄関から私の元へやってきて、私の前に膝を突き、そっと顔を覗きこむ。綺麗な瞳が猫のように細く、優しい形に微笑んだ。
「ただいま戻りました、主。あなたの長谷部です。よもや、お忘れではないでしょうね?」
 長谷部はいつも、帰ってくると私の頬をするりと撫でて同じ挨拶をしてくれる。ひと眠りするたび、私がうっすらと記憶を溶かして、ぼんやり長谷部のことを記憶の彼方に押しやろうとするから。自分でもなぜだか分からない。こんなに毎日傍にいるのに。もうずっと、傍にいるのに。……もうずっと? ずっとって、いつからだろう。
 長谷部はうっとりと私に微笑みかけると、着ていたスーツを手早く脱いでハンガーに吊るし、ラフな服装に着替えてからキッチンに立つ。私がここに来る前は、冷凍食品やインスタントばかりだったと言っていたから、少しでも生活習慣が正されたなら、私がいる意味もあるのだろう。
 長谷部の料理の腕は、日を追うごとに上がっていった。根が真面目で几帳面だから、なんでもきっちりレシピ通り。ふたり分のレシピが載った本を買って、順番に私に食べさせてくれる。これはいつか、主が食べたいと仰っていたでしょう? そう言われてみればそんな気もしたし、そうじゃない気もした。味は正直よく分からなかった。でも長谷部がにこにこと嬉しそうに、私の前に料理を並べていくのは見ていて楽しい。幸せ。長谷部といるのは、幸せ。
 季節が変わり、長谷部は上着を脱いで外に出掛けるようになった。相変わらず私は部屋のなかでじっと長谷部の帰りを待ち続けている。最近はもう、長谷部のことを忘れたりしない。彼がいない間も、ずっと長谷部のことを考えている。昨日のご飯はハンバーグだった。形がとてもきれいで、中までしっかり火が通って、ソースの色も、付け合わせの野菜も、完璧にレシピ通り。
――すごいね。
 私が長谷部を褒めると、嬉しそうに頬を赤らめて、長谷部はありがたき幸せ、と言うのだった。その時代がかった喋り方すら愛しくなる。長谷部のことが、どんどん好きになっていった。
 時々長谷部は、お土産を買ってきてくれる。それは料理やお菓子の時もあれば、綺麗な洋服やアクセサリーだったりもした。薄くて柔らかいワンピースの、淡い藤色は長谷部の好きな色。きらきらとダイヤのあしらわれたネックレスは高かったに違いない。
――きれいだわ。
 私が笑うと、長谷部は必ず、あなたのほうが綺麗ですよ、と言ってくれた。
「主。じっとしていてください」
 ある時、いつものように夕食を追えた後、後片付けをした長谷部がそわそわと落ち着きのない様子でそう言った。
「目を閉じて」
 言われて私は、そう言えば瞬きをしばらくしていなかったと思い至った。忘れていたのだ。言われた通り少しだけ目を瞑り、もういいですよという声に応じて目を開ける。ふふふと嬉しそうに笑った長谷部が、ひらりとその大きな左手を返して見せた。
 左の薬指に、きらりと光るものがある。
 綺麗な、指輪だった。華奢でシンプルなリングの中に、一粒のアメジストと、一粒のダイヤが埋め込まれている。長谷部は紅潮した顔で嬉しそうににこにこと微笑み、お揃いですよ、と甘い声を出した。見れば、私の指にも同じ指輪がはめられていた。
――結婚指輪?
 驚いて何度も長谷部の指と自分の指に視線を向ける。
「ええ、そうです。俺と主の。以前注文していて、やっと出来上がったんですよ。どうです、気に入りましたか?」
 長谷部が自慢気に言うものだから、私はしかつめらしい顔で頷いた。
――ええ、とっても。すごく素敵よ。でも長谷部、これは結婚するときに付けるものでしょう? どうして私に?
 私の問いかけに、長谷部は大きく目を見開いて笑みを消した。
「主。」
「主、どうして。俺と、主はもう、夫婦でしょう?」
 婚姻届けなんて出したかしらと首をひねれば、そんなものは必要ありません、とやけにきっぱり長谷部が言いきった。
「俺が、どれだけ主をお慕いしているか、ご存じのはずでしょう?」
「ひどい方だ。俺の心を弄んで、そんな風に何も知らないふりをして」
「主。主。主。あなたも、俺を好いてくださっていると、思っていたのに!」
――ああ、長谷部。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。好きよ。私も、あなたのことが好きよ。
 激昂した長谷部は、しばらく私の言葉が聞こえていないようだった。長谷部を怒らせるなんて、初めてだ。いつもは優しい長谷部の瞳が、急に冷えて鋭さを増していた。刃のようにぎらぎらと睨まれ、根源的な恐怖に見舞われる。どうしたのかしら。どうしてこんなに恐ろしいのかしら。まるでいつかどこかで、同じように恐ろしい思いをしたかのようで。
――ごめんなさい、ゆるして。ゆるして、長谷部。
 いつか同じ言葉を、長谷部に向かって言ったことがあるような気がした。
 長谷部はひとしきり憤慨したあと、興奮した気持ちを抑えようと努めて深呼吸をしていた。呼吸が静かなものになり、ようやく瞳にも優しさが戻る。やおら長谷部はこちらを向くと、私の目線の高さまでしゃがみ込んで、正面から私を覗きこんだ。
「主。興奮してしまい、申し訳ありませんでした。ですが、俺は俺の愛と忠誠を、疑われることが何よりも嫌いです」
――ええ、分かっているわ。ごめんなさい。あなたが私を愛してくれてるのは、知ってるの。私も愛しているわ。
「それなら、良いのですよ。ねぇ、主。今度は、この指輪に似合う、ドレスを買ってきましょうか。ふたりで、結婚式をしましょう。いい考えでしょう?」
 長谷部はもう先ほどまでの恐ろしさを全く見せず、いつものように穏やかに笑って、夢のような提案をした。
――ええ、素敵ね。
 私の答えも、長谷部は気に入ったようだった。


   *** ***


 昼がきて、夜が来た。相変わらず長谷部は朝に出掛けて、夜に帰ってくる。私も相変わらず長谷部の帰りを待っている。ここから見える景色は変わらず、私はずっと居間のソファの上に横たわっていた。動きたいとは思わなかった。何もしたいと思わなかった。はやく長谷部が帰ってきて、私に沢山話をしてくれるのが待ち遠しかった。部屋はいつも綺麗に保たれていて、エアコンの空気がさらさらと私の髪を撫でている。ごうごう唸る機械の音は、私がここに来た時からずっと止まったことがなかった。
 玄関のほうから音がする。長谷部が帰ってきたのだろうか。いつもよりずっと早い時間の帰宅に首をかしげていると、ガチャガチャと鍵を回す音がいつもより長く続き、そしてドアの開く音とともに、どかどかと人の流れ込んでくる気配がした。
 廊下と居間を仕切るドアが開けられる。現れたのは、くたびれたコートを着た、冴えない髭面のおじさんだった。部屋に踏み込むなり身震いをして、部屋の灯りを点け、私を見つけた。
 随分と、失礼な人のようだった。私を見るなり目を剥いて、すぐに吐きそうな顔をする。長谷部とは大違い。誰なのだろう。
――どなた?
 尋ねてみても、答えは返ってこなかった。無視するなんて、本当に失礼な人だ。
 そのおじさん以外に、部屋に踏み込んできたのは目つきの悪い男の人ばかりだった。玄関先には、おどおどとしたおばさんが立っていた。長谷部はいつも、さっさとドアを閉めてしまうけど、こうしてドアが開いていると玄関までまっすぐ見える。何かに怯えたようなおばさんと、目が合った気がした。
「ひ…!」
 これだけ離れていても、おばさんが悲鳴を上げるのが聞こえた。すぐに部屋のドアが閉められ、おばさんの喚く声が遠くなる。状況が良くないことだけは確かだ。私が誰からも好意的に見られていないことも。長谷部にとって、この人たちが何かよくないものであることも、間違いない。
 いつもは早く帰ってきてほしいと思うのに、この日に限っては長谷部が戻りませんようにと祈るような思いだった。そんな願いが、届くわけもないのだけれど。
 長谷部はいつもと同じ時間に帰ってきた。物陰に身をひそめ、長谷部の帰りを待つ男たちが潜んでいるわが家へ。玄関の開く音がする。私は渾身の力を込めて長谷部に叫んだ!
――気をつけて!
――変な人たちがいるの!
――あなたの帰りをずっと待ってた人たちがいるの!!
 私の声は、男たちには聞こえない。だけど長谷部なら、気付いてくれる。願いは届いたようだった。いつもなら玄関から真っ直ぐにこちらへ向かうはずの長谷部が、まだ姿を現さない。それどころか、ごそごそと廊下にある納戸の扉を開けている気配がした。男たちも不審に思ったのだろう。隠れていた場所から現れて、様子を伺おうと一人の男がドアに近づいた。その時だった。
 勢いよく廊下の扉が開き、長谷部が何か長いものを持って踊りこんできた。部屋は暗い。でも廊下もまた暗かった。暗がりから暗がりへ、長谷部は先頭にいた男を蹴りつけて、長い何かを思いきり振るった。
 ぎゃっと悲鳴が上がるのと、何かが飛び散る嫌な音がした。長谷部が構えていたのは、どうやら日本刀らしい。腕を切られて倒れた男を、その鋭い切っ先で突き刺した。誰かが灯りを突ける。途端に白く眩しい光が、男の腹を貫いた日本刀に反射した。長谷部は浴びた返り血をそのままに、刀を引き抜いて周りの男たちに視線を巡らせた。
 長谷部は怒っていた。恐ろしいほどに怒っていた。周りにいた男たちは、一斉に拳銃を構えて長谷部に向けている。だけどそれは、長谷部の怒りを煽るものでしかない。
――長谷部、後ろ!
 私の悲鳴より早く、長谷部が刀を掴んだ手で、背後をぐるりと一閃した。じりじりとにじり寄っていた男の胴が、横に裂けて鮮血が飛んだ。同時に、パンッと乾いた音が鳴る。驚いた顔で、長谷部が振り返った。誰かの放った拳銃の弾が、長谷部の片足を貫いていた。瞬間、夜叉のような顔をして長谷部が刀を振りかぶる。その肩に、二発目の弾丸が。
――やめて!
 長谷部が動こうとするたびに、乾いた発砲音がする。両脚に何発も銃弾を受けた長谷部は、立っていられずその場に尻餅をついていた。手にしていた刀は、飛び掛かった男にもぎ取られ、奪われてしまう。ああ、長谷部。長谷部。
 血に汚れた長谷部の手に、銀色の鉄輪がかけられた。男の一人が長谷部を押えたまま、時計の針を読み上げる。救急車とパトカーの音が迫っていた。私が見つめる目の前で、長谷部に切られた男がふたり、そして長谷部の合わせて三人が、部屋の外に連れて行かれる。
――長谷部っ!
「あるじ…っ!」
 どうにか男たちを振りほどこうと、長谷部が身を捩る。苦痛に歪んだ顔が見えた。私を心配そうに見る、長谷部の綺麗な瞳。
「あるじ!」
――長谷部! 待ってるわ! 待っているから…!
 長谷部は男たちに押えられながらも、私に向かって力強く頷いた。だから、私は待つことにした。いつもと変わらない。長谷部は、帰ってくる。早く戻ってきて。私を置いていかないで。ああ、長谷部。長谷部。長谷部。ひとりは嫌なの。


   *** ***


 くたびれたコートを着た、冴えない男が携帯電話のボタンを押していた。とっくに日は暮れて、いつもなら家で夕飯を食べている時間だった。生ぬるい風が、妙に首元にまとわりつくようで、気持ちが悪い。騒然とするマンションの一室は係員でごった返していたせいで、男は仕方なく玄関近くの廊下で上司の応答を待つことにした。
「もしもし、署長。郷田です。はい。はい。終わりました。ええ。黒でしたよ。まったく酷いやつだ。確保するのに、ふたりが重症ですよ。とんでもねぇやつです。日本刀を隠しもっていやがって。ええ、田伏に持たせましたから、そっちで確認してください。ガイシャは居間の、こう、ソファのところにね、寝かせてあって。もうほとんど骨ですよ。それがきれいにミイラみたいになってて、傷はそりゃまだ検分が終わっちゃいませんから、分かりゃしませんが、ソファがべったり血で変色してますよ。たぶんあそこで首でも掻き切ったんじゃないですかね。どうやったらあんな綺麗な干物みたいになるのか、それだけが不思議ですが…。ああ、いや、もっとおかしいことがあったな。いや、おかしいんですよ。仏さん、そりゃあ綺麗な花嫁姿でね。中が干物だからえらく怖いんですが、どうも殺した後に着せ替えたみたいでして。気が狂ってやがる。骨に、ネックレスと、指輪までしてるんですよ。全然汚れてないきれぇな石の付いたやつで。最近付けもんじゃないかって、鑑識連中が言ってましたから、あの野郎、仏さん着飾って遊んでやがったんだ。可哀想に、生きてりゃ別嬪だったんでしょうが、骨を飾られてもねぇ。ええ、まだしばらくこっちはかかります。あの野郎は先に連れていかせましたから、そろそろそっちに着くころじゃないかと、……署長? どうしたんです、署長!?」
 悲鳴が聞こえた。獣のような声は、命を絶たれる寸前の、断末魔の響きだった。受話器が床にぶつかる激しい音に、液体のぼたぼたと零れる音が重なる。
「署長っ、署長っ!!?!?」
 誰かが、電話を拾い上げる。服で擦ったような、ノイズ。そして。
『……俺の……あるじを、返せ……』
 聞こえた声は、あの男のものだった。