「よう」
「あれ、跡部じゃん。樺地くんも」
「ウス」
「久しぶり」
 その日、一ヵ月ぶりに跡部と喋った。


Wonderful World




 三年になって夏が過ぎ、新たな生徒会が発足したことで私の仕事は終わりを告げた。それまでの一年があまりにも忙しくて、あまりにも充実していたから、私は自分の体が空っぽになったように感じていた。本当はこんなに真面目に仕事をするつもりじゃなかったのに。生徒会役員になったのは、もっと不純な動機だったのだ。だけど跡部は違っていた。堂々と氷帝の最高峰に君臨した跡部は、周りを待ってくれるような奴じゃなかった。私が伸ばした腕を掻い潜るように先へ先へと進んでいく。放っておけば距離は開くばかりで、必死に追いすがろうともがいていたら、いつの間にか一年が終わっていたのだ。本当に、飛び去るような速さだった。
「どうしたの、うちのクラスに何か用? って言っても、私しかいないけど」
「補習か?」
「うん。受験対策にね。家にいてもだらだらしちゃうから、先生に課題もらってるの。今日は英語のプリントが3枚」
「推薦で受けるんだって?」
「跡部も、でしょ?」
「ああ、まぁな」
 がたりと音を立てて、隣の机に腰掛けた跡部が、樺地くんの名前を呼んだ。
「あとは俺一人でいい」
「ウス」
 どれだけの信頼関係があるのか、そんな短いやりとりで樺地くんは踵を返していく。これからテニス部の練習に行くのだろう。少し前まで二つ並んでいたテニスバッグが、今はもう一つしかない。それが少しだけ寂しかった。
「もうすぐ文化祭だな」
 ぎぃっと机を軋ませながら、跡部が長い足を組む。体を捻って跡部のほうを向いていた私は、そうだねと答えてプリントに向き直った。少し潰れた印字でいくつもの単語がならんでいる。先生に決められた制限時間まであと少し。早く終わらせてしまわないと。

 相変わらずの偉そうな声で跡部が名前を呼んだ。二年の時、跡部と同じクラスになった。魅惑的な声が私の名を呼ぶたび息苦しいほど嬉しくなって、だからいつでもその声が聞けるよう、できるだけ近くにいたいと思った。生徒会役員になったのもそのためだったのだ。ただ隣に立ちたいから。同じ場所で全てを見たいから。そんな甘い考えはすぐに吹き飛んでしまったけれど、傍にいたいという思いだけは変わらなかった。三年になってクラスが離れてしまってからは、跡部との繋がりが保てて幸せだった。
「最終日の後夜祭、誰と行くんだ」
「文化祭の?」
「他に何があるんだよ」
 三日後に迫った氷帝の文化祭には、最終日にパーティーがある。通称『後夜祭』は他校から羨まれる氷帝最大のイベントだ。跡部が入学してから豪勢になったともっぱら評判のそのイベントは、一人でも参加可能だが男女ペアで参加すれば記念品がもらえる。そのため、クラスや部活で顔見知りの異性と誘い合うことになった。交際中の相手がいる場合は言わずもがなだ。
「私は一人で行く予定」
「あーん?」
「去年も相手いなかったし、友達は彼氏と行くって言ってるし」
「去年は生徒会の仕事があったからだろ。一昨年は大柴とつるんでたじゃねーか」
「ペアって言ってよ」
「はっ。どうせ記念品目当てだったんだろ」
「私はね」
「どういう意味だ」
「一年の時、後夜祭が終わった後に告白されたの」
「…そんな話、初めて聞いたぞ」
「言った覚えなんてないから当然なんじゃない?」
 押し黙った跡部に笑って、私はプリントの空欄を埋めた。
「隣の席で気が合うからって、私から誘ったんだよ。酷い奴だよね。期待させるようなことして」
「大柴にそう言われたのか」
「違うよ。私が自分でそう思ってるの」
「別にのせいじゃねぇだろ」
「まーそうなんだけど。あ、でもね、今年誰も誘わなかったのはちゃんとした理由があるんだよ」
「理由?」
「私、片思いだけど好きな人がいるから、その人以外誘いたくないの」
「じゃあ、そいつを誘えばいいだろう」
「だめだよ」
「何がだ」
「人気あるから、きっともう相手が決まってる」
 それが跡部のことだとは言わない。というより言えない。それくらい跡部は遠い存在だった。憧れて手を伸ばしても、決して届かない太陽のように。近づきすぎれば翼を焼かれて墜ちるしかないのだ。それでも、跡部へ近づこうとする人は絶えないだろう。去年は後夜祭が始まっても生徒会の片付けが終わらなくて、結局は役員のみんなで途中参加になってしまった。私は跡部が好きだったから、複数の中の一人だとしても、一緒に楽しめて嬉しかった。けれど他のファンの子たちは悔しかったはずだ。今年は夏休み明けから争奪戦になっている。既にパートナーが決まっていてもおかしくはなかった。
「もし誰かに誘われても、そうやって断るつもりか?」
「ないない。誰からも誘われないから一人で行くって言ってんのに」
「俺は誘いを受けるのか受けないのかを訊いてるんだ。答えろ」
 跡部の口調が厳しくなった。だけどそんなのは今まで何度でも経験してきている。これくらい、もう怖がらないで答えられるようになっていた。それだけの時間を共に過ごせたことは、私の小さな誇りだ。跡部の鋭い視線を受けても真正面から見据えられる自分なんて、一年前には考えられなかったのに。
「好きな人以外から誘われたらっていう仮定?」
「ああ、そうだ」
「誘ってくれる人が沢山いたら、みんな断るよ。でももし一人だけなら、好きじゃない人でもOKする、かな。折角誘ってくれてるんだから」
「そうか」
「これで満足?」
「ああ。そういうことなら、。最終日は四時に待ち合わせだ」
「…はい?」
「三時まで用がある。長引いても三時半には終わらせるから待っていろ」
「ちょ、ちょっと、跡部!」
「なんだ、聞こえなかったのか」
「聞こえたけど! その…待ち合わせ、ってなに?」
 あからさまにため息をついた跡部が、不愉快そうな表情を見せた。分かっているんだろうと言いたげな目に捕らえられる。だけど、頷くことなんてできない。ちょっと待ってよ。チア部の元キャプテンはどうしたの。ソフトボール部の二年生は? 他にももっと沢山、跡部に誘いをかけている人を知っている。みんな私よりずっと可愛くて、男の子に人気のある人ばかり。
「俺が誘ってやってるんだ。当然来るよな?」
「…行かない」
「なんだと?」
「だってありえない…! これ、ドッキリかなんかじゃないの! ドアの向こうに忍足とかいるんでしょ!?」
「おい、
「ここでうっかり『行きます』なんて言ったら、鬼の首とったみたいな顔でがっくんが入ってきたり宍戸に馬鹿扱いされたりするんだ…! もしくは夢オ…!」
 その時私は確か「夢オチ」と言うつもりだったんだと思う。だけど最後まで口にする前に、言葉も呼吸も思考力さえも全て跡部に奪われてしまっていた。完全に強制停止させられた感覚の中で、唯一感じられたのは唇の熱だけ。ぼやけた視界の隅で、赤い光がチカチカと点滅を始めた。一番小さな音量で陽気なメロディが鳴る。机の上に置いていた携帯電話が制限時間の終わりを告げているのだ。英語のプリント。唐突に、全ての感覚が甦ってきた。跡部の体を必死になって押しのけた。
「っ! なにするの…っ!」
「話を聞く気になったかよ」
 至近距離で睨みつけてくる跡部の視線が痛い。澄んだ瞳に真っ直ぐ射抜かれて、私はその場から動けなくなった。もし動けていたとしても、後頭部を捕まえられていたから逃げられなかっただろうけれど。
「はっきり言ってやる。俺はのことが好きだ」
「うそ…」
「本当だ。テニス部だった奴ならほとんど知ってるぜ。俺よりもあいつらの言葉が信じられるっていうなら、誰か捕まえて訊いてみろ」
「だって、跡部…」
「だってじゃねぇだろ」
「…じゃあ、なんで」
「好きになるのに、理由が必要なのか?」
 涙が出そうだった。頭の後ろに触れていた大きな手が一瞬離れて頬に移動する。視線を合わせられなくて俯いた顔が、乱暴に上向けられてもっと泣きそうになった。
「一年だ」
 怖い顔で跡部が言った。ううん、違う。怖くなんてない。ただ真剣なだけ。
「お前が副会長になった一年前、俺ははっきり言ってお前なんか眼中になかった。頼りなくて何のとりえもないお前は、きっと足手まといになるだろうと思っていたんだ。だけど違った。完璧を目指す俺を一番理解して、誰よりも協力を惜しまなかったのは、お前だ。一度も手を抜かずに、どんな時でも自分に出来ることを最後まで探していた。お前だけが俺についてこられた」
「…」
「一年間、ずっと見ていたんだ。理由なんて、それで十分だろう」
 もう我慢できない。視界が歪んで前が見えなくなった。格好悪くて可愛くないのは分かってる。だけどもう限界だったから、私は跡部の手を振り払って俯いた。スカートに小さな染みができた。
「…泣くな。キスしたのは、悪かった」
「ちが…っ」
?」
 そうじゃない。キスされたのが嫌で泣いてるんじゃない。言葉にしたい想いがあるのに、嗚咽にまぎれてまともな声が出せなかった。だめだ。こんなんじゃ、跡部に呆れられる。嫌われる。そう思っても、溢れてくるのは涙ばかりで、ちゃんと気持ちを伝えられなかった。頭の上で、小さく息を吐く音がする。呆れられたのだと思った私が、思わず顔を上げかけたとき。跡部の胸元のエンブレムが見えた。
「なぁ、。お前が誰を好きでもいいんだ」
 跡部が声を出すたびに、震えるような胸の振動がじかに伝わってくる。温かくて瞼を閉じてしまいそうになるほど優しい抱擁だった。
「きっと、俺を選んで良かったと思わせてやるから、最後の後夜祭くらい俺に付き合えよ」
 身勝手な台詞。なのに、こんなにも嬉しい。嬉しくて嬉しくて、どうすれば涙を止められるのか分からなかった。けれど、溢れてくる熱い雫はすぐに跡部のシャツが吸い上げて消してしまう。ねぇ、跡部。このまま私が泣いていても怒らないの? 優しすぎるよ。跡部のくせに。こんなことされたら、もっと好きになるじゃない。
「…跡部」
「なんだ」
「…好き」
「…」
「私も、ずっと好きだった…」
 その瞬間、跡部が腕の力を強くした。押しつぶされそうなほど強く強く抱きしめられたのに、不思議と痛くなかった。幸せなだけだった。
「そういうことは、もっと早く言え」
 信じられないけど、夢じゃない。その証拠に、跡部とした二回目のキスは涙のせいでしょっぱかった。
 繰り返して鳴り始めた携帯のメロディが、さっきよりも少しだけ優しく聞こえた。