俺が大丈夫じゃないんだ。



 薄い水色が群青に変わり、いつしか濃紺の世界が訪れる。街の明かりに照らされた夜の色は薄いけれど、街灯の脇に出来る暗闇は思ったよりも濃かった。だからと言って、歩き慣れた道に恐怖心は感じない。羊のように群れて帰る塾仲間を見送って、私は一人で帰路に着いた。スニーカーの軽い足音が響いて、時折どこかで犬が鳴く。夏の暑さも夜にはやわらぐから、いつまででも歩ける気がした。けれど、私の孤独で静謐な時間は長くは続かない。
「やあ。お疲れ様」
「…今日もいるの」
が夏期講習に通う間は毎日来る予定だ」
「やめてよ」
「残念。こればっかりは譲れないな」
 繁華街から閑静な住宅地に向かう途中の路地。街灯の脇に備え付けられた自販機の前で乾が佇んでいる。私が塾の夏期講習に通うようになってから、なぜか毎晩ここにいる乾は、なんだかんだと話をしながら私の家までついてくるのだ。どうして、と聞くのは嫌だった。ここで疑問を口にすれば、今よりもっと深く乾の罠にはまる気がする。私は乾の横を通り過ぎて、そのまま家に向かって歩き出した。

「ついてこないで。乾、家の方向違うでしょ」
「でも、俺が帰ったらは一人だろう。夜なのに危ないじゃないか」
「毎日帰ってる道だから一人でも大丈夫だよ」
 昼と夜との違いなんて些細なものだ。人が少ない。光が当たらない。ただそれだけのことで、どうしてそんなに過敏になるの。両親もそうだ。友達と帰ってくるように言われるたび、私は生返事で誤魔化している。友達と、なんて言われても、仲の良い人なんて同じ塾にはいないのに。
「…だから危ないって言ってるんだ」
 考え事をしていて、乾の返事が遅れていることに気付いていなかった。不意に手が持ち上がって、乾に握られていると分かるまで数秒。呆気に取られる私を引っ張るように、乾が少し前を歩いていく。乾の手が熱い。歩くスピードが速くて、いつの間にか私は小走りになっていた。
「ちょっと、乾!」
「ああ、ごめん。歩くの速かった?」
「それより、手!」
「手?」
「は、離して!」
 同級生の男の子と手を繋ぐなんて、小学校の低学年以来だ。一気に心臓の音が大きくなって、息苦しくなった。見下ろしてくる乾の表情は、暗がりではっきりとは分からない。強く握ってくる乾の大きな手に神経が集中してしまう。今更だけど、身長の高い乾は隣に並ぶととても大きかった。
「…嫌だ、って言ったら?」
 離すどころか逆に強く握られた手のひら。振りほどこうとしてもびくともしない強さに気付いて、私は急に怖くなった。乾を怖いと思うなんてどうかしている。同じクラスで、テニス部のレギュラーで、最低なドリンクを作っているだけのただの男の子だって、それこそ、この道と同じくらいよく知っているくせに。
「…離して」
「離したら逃げられる確率が97%になる」
「だって、乾が…、」
「俺が怖くなった?」
「!」
「じゃあ、自分がどれだけ無防備だったか、気付けたかな」
「…どうして、こんなことするの…」
 ああ、聞いてしまった。だけど、聞かずにはいられなかった。
「夜に女の子の一人歩きなんて、が良くても俺が大丈夫じゃないんだ」
「…なんかそれって、乾が私のこと好きみたいに聞こえるんだけど…」
「好きだよ」
「う、うそ!」
「こんなことで嘘ついてどうするんだ。本当に、のことが好きだよ」
「わ、私は別に乾のこと…っ!」
「知ってるよ。好きじゃないって言うんだろ? でも、嫌われてないならまだ勝算はあるはずだし、俺は諦めないけどね」
 何言ってんの、この人! 自意識過剰にも程があるんじゃないの! 思わず見上げた乾は、暗がりでも分かるほどの笑顔だった。手は、まだ繋がれたまま。振りほどこうとしても、やっぱりびくともしない。息苦しさが増していく。
「は、離して!」
「だから嫌だってば」
「私がヤだよ!」
「酷いな、
「調子に乗らないでよね! 私まだ、乾のことなんて何とも思ってないんだから!」
「フフフ」
「何笑ってんの!」
 ぎゅっと、乾の握力が強くなって、私は自分の失言を思い知らされる。
「まだ、ってことは、これから好きになってくれるんだよね、?」