嘘だと言ってくれ



 好きっていう気持ちはよく分からないのに、私はいつも乾くんのことを考える。そばを通る時に感じる背の高さ。プリントを渡す大きな手のひら。淡々と語る低い声。くっきりと突き出した喉仏。何ひとつ、私と似通ったところなんてない。どこか大人びた男の表情を見せる乾くんに、どうしようもなくドキドキする。これが好きっていう気持ちなの? 乾くんなら、この不思議な感情にすら、明快な答えをくれるのだろうか。
「あ、れ?」
 長引いた委員会からのんびりと教室に戻った私は、机の上に置かれたノートを見てどきりとした。表紙の少し汚れた分厚いノートには、乾くんの名前が書かれている。でも書いてなくても、わかってしまう。いつも大切そうに持ち歩いて、少しでも覗こうとすれば顔を顰めていたものだから。確認するように見た右隣の机には鞄がなくて、彼がすでに部活へ行ってしまったのだと分かった。その机の中から、教科書や授業用のノートが今にも落ちそうにはみ出している。大事なノートを鞄に詰め込むのも忘れるほど急いでいたのだろうか。乾くんの机へ教科書を押し込みながら、どうしようか少しの間迷って、結局私はそっとノートを持ち上げた。きっと乾くんにしか分からないデータの詰まった分厚いノート。いつもあれだけ固執しているのに、間抜けなところもあるのだとおかしくて、でも、やっぱりこれは乾くんの大切なものだから。帰りついでにテニスコートへ届けよう。そう考えて、私はノートに手を伸ばした。
 中を見ようと思っていたわけではなかったけど、少しの遠慮と少しの緊張が私の指先を狂わせた。思った以上に重さのあるノートは、簡単に私の指をすり抜けて。
「あ!」


   *** ***


 気付いたのは、練習が始まってしばらく経った時だった。替えのタオルを取りに部室へ戻った俺は、鞄を開けて固まってしまった。あのノートがないのだ。どこに置いたのか、思い出そうとして頭に手をやる。…教室の可能性が一番高い。今日は掃除が長引いて、ひどく慌てた記憶がある。もしも教室に置いたままなら、早く取りにいかなくては。机の中にあればまだしも、もしかしたら、の机の上に置いていたかもしれない。掘り起こす記憶はどこまでも曖昧で、気持ちばかりが焦っていった。とにかく、練習が終わったら一度教室へ戻ろう。
 そう決めた俺が、鞄のファスナーを閉めたときだった。部室のドアを開けて、大石が入ってきたのは。
「ああ、乾。やっぱりここだった」
「どうしたんだ、大石?」
「乾のこと探してたんだよ。さんが、乾のノートを届けてくれたんだ」
「!」
「いや、乾のノートみたいって言ってたっけ。さん、乾ここにいたよ。悪いけど、確認とって違ってたら職員室に届けてもらえるかな?」
「うん。練習中にごめんね、大石くん」
 大石の後ろから、が遠慮がちに部室を覗き込んだ。その手が抱きしめるように持っているのは、確かに俺のノート。呆然としている俺を他所に、大石はじゃあと爽やかに笑ってその場を後にした。薄暗い部室の中に佇む俺は、がゆっくりとノートを差し出すのを見ていた。
「これ、私の机の上に置いてあったんだけど、乾くんのでしょう?」
「…ああ」
「机の中に入れておこうかと思ったんだけど、大切なものなら、渡したほうがいいのかなって、思って」
 どこか俺を避けるような視線に、俺の背筋がすっと冷たくなった。
「…、もしかして、中、見た?」
 びくりと、が反応する。ああ、そうか。見てしまったのか。
「う、ごめん。でも、」
「ストップ。そういう時は、見てないって言うものだよ」
「え?」
「今の言葉、嘘だと言ってくれ。聞かなかったことにするから」
「そんな、」
「そのほうがだって気が楽だろ?」
 自分自身でさえ持て余しているこの気持ちを、に受け止めてもらおうとは思わない。いつの間にか、呼吸をするのと同じくらい自然に染み付いた無意識が、君のデータをもっともっとと求めてくるけれど。いつになく後ろめたい気持ちを抱えて、俺はから30cm手前の床を見下ろした。
「悪かったよ。気持ちのいいことじゃないって、分かってる。…もう、やめるから。なかったことにしよう。いや、なかったことにしてほしい。頼むよ。気まずくは、なりたくないんだ」
 手にしたノートをぎゅっと握りしめた。硬い表紙が不自然に曲がる。データが詰まったノート。君の、の、…俺の好きな人の、データ。
「…ノート、折れちゃうよ」

「私ね、ずっと前から、乾くんに聞いてみたかったことがあるの。…ねぇ、好きってどういう気持ち?」
「え?」
「そばにいると落ち着かなかったり、姿が見えないと探しちゃったり、声が聞こえただけで嬉しかったり、話しかけてもらえたらドキドキしたり、一緒にいたいって思ったり、こういうの、好きってことだと思う?」
「…少なくとも、嫌ってはいないと思うぞ」
「じゃあ、自分の行動がすっごく細かく書かれてるノートを見て、嬉しいって思ったら、決定的?」
「! それって、」
 まっすぐ俺を見上げたの顔は、随分と赤い。
「ねぇ、乾くん。私、乾くんのこと、好きなのかな…?」
「…の気持ちを、俺が確定することなんて出来ないよ。でももし、君が確信を求めるのなら、」
 たぶん俺の顔も、赤い。
「俺と、付き合ってみないか?」

 考えてみてくれ。俺達が幸せになる確率は、限りなく100%に近いと思うんだ。