きれいな恋



 木手永四郎という人がいる。常に大人びた落ち着きを身にまとう彼と私との間には、きっといくらかの温度差が存在していて、彼との距離が例えば本当は一メートルだったとしても、意識的にその距離は三倍以上になった。彼の冷たい瞳はテニスに限ってのみ熱を帯びるのだ。そのくせ彼には彼女がいた。
「ああ、そう」
 木手永四郎の彼女は美人だった。同級生の私が誇れるほどに二人はお似合いで、いつも私は二人の姿を追っていた。ある雨の日には、一つの傘に並んで入る二人を見た。木手永四郎の肩は濡れていたけれど、彼女の肩は乾いたままだった。傘を持たない私はそんな二人を心底羨ましいと思った。けれど今。あの時決して寒さに震えなかった彼女の肩が慄くように揺れている。ドアに手を掛け損ねた私は、教室に背を向けて誰もいない廊下へずるずると座り込んだ。ほんの少し開いたドアの隙間からは、俯いた彼女の姿しか見えなかったけれど、声が聞こえたから木手永四郎もここにいる。こういう時は、見て見ぬふりをしてどこかへ行ってしまうのがいいのだろうか。躊躇ううちに、再び木手永四郎の声が聞こえた。
「それじゃ、元気でね」
「…怒らないの」
 それは彼女が振り絞った勇気の証だったのか、それとも彼に対する憐憫だったのか、後悔だったのか、虚栄だったのか、私には結局分からないままだった。問われた木手永四郎は、たぶん怪訝な顔をして聞き返した。
「怒る? 君が別の男を好きなったから? それで俺が捨てられるから? それとももっと別の理由で? ――冗談じゃないよ」
 静かな声だった。だからこそ、私は息を飲んだ。
「馬鹿馬鹿しくて、笑うのが精一杯だ」
 木手永四郎の声は本当に笑いを含んでいた。可笑しくて堪らないと言う笑い方ではなかった。何かを嘲るような、見下したような、そんな余所余所しさのある冷めた笑い方だった。
「もう話すことはないだろ。どこへでも行きなさいよ」
 教室のドアが勢いよく開き、追われるように飛び出してきた彼女が私に気付いて立ち止まった。けれどすぐに教室から椅子を蹴飛ばす音が聞こえて、再び彼女は駆け出してしまった。彼女の背中が廊下の角に消えるまで私はずっとその白いシャツを見つめていた。教室の中はもう静かだった。
 木手永四郎の声はその瞳ほど冷たくはない。私は彼の声が好きで、国語の授業中は毎回彼が当たればいいと思っている。彼が指名されると、いつも奇妙な感覚を味わった。まるで彼の声が体の芯に染み込んでいくような気分になるのだ。木手永四郎の声が聞こえると、私は決まって耳をそばだてるようになった。だから、彼女を突き放した冷たい声は、私にとってとても悲しいものだった。
「盗み聞きとはいい趣味ですね、サン。それとも、覗き見ですか」
 開けっ放しになっていた教室の入口に立って、私を見下ろしながら木手永四郎がそう言ったとき、やっぱり私は注意深く彼の声を聞いた。彼の声はもう冷たくなくて、耳鳴りがしていたにも関わらずはっきりとよく聞こえた。そのうち彼は私の様子に気付いて理解しがたいという表情をした、と思う。思う、というのは私の視界が滲んでいてよく見えなかったからだ。
「君が泣く必要なんてないだろ」
 私はうんと頷いたけれど、嗚咽に紛れたから彼には伝わらなかったかもしれない。木手永四郎はため息をついて、私の隣にしゃがみ込んだ。
「博愛主義でないなら、さっさと泣き止みなさいよ、サン」
 それは無理な注文だ。私が泣いているのは博愛主義でないからだということを木手永四郎は理解していない。彼の言い分を受け入れるには些かの誤解が妨げとなる。博愛主義であったならこの涙も引っ込むのだろうが、今私が泣くのは木手永四郎のためであって、木手永四郎の彼女だった人のためではない。全ての人を同等に愛することなんて不可能だし今のところ私にとっては無意味な行為だ。結局のところ、一番大切なのは木手永四郎だったのだから。
「木手、くん」
「なに」
「どうして平気な顔をするの」
「平気だからでしょう」
「もう好きじゃ、ないの」
「初めから好きじゃなかったよ」
「好きじゃないのに、付き合ってたの」
「そういうこともあるんですよ」
 諭すように言う木手永四郎はその場を動こうとしなくて、私はまた溢れてくる涙にぼやけた視界で彼の姿を見つめた。だから、と彼は言った。だから続かなかったんでしょ。その時私は気付いた。木手永四郎がさっさとこの場を去らないのは、私が泣いているからだ。もしかしたら、そうと知ってこの涙は流れているのかもしれない。私の体は案外姑息な手段を選ぶ。
サン」
「うん」
「もうテニス部の練習が始まってる」
「うん、そうだね」
「部長が遅刻なんて、示しがつかないね」
「一回くらい、いいんじゃないの」
「言うね、君も」
「ねぇ、木手くん」
「なに」
「今度は、本当に好きな人と付き合いなよ」
 それは私の願望であり、お節介であり、胸にわだかまった重要な問題だった。泣いている私の言うことを木手永四郎は聞き流したりしないから、卑怯だと思いながらも私はそう口にした。
「そうだね、サン」
 私の傍にしゃがみ込んだ木手永四郎は、いつの間にか疲れたように長い脚を投げ出していた。そうして汚れた上履きのつま先より少し向こう側を見つめながら、私の好きな抑揚のある声で言ったのだ。
「今度は君と、きれいな恋でもしてみようか」