ハッピーバレンタイン



 下駄箱を開けたらチョコが入っていた、なんてのは、どこぞのイケメンに起こるイベントだと思っていた。
「……」
 ぱたん、と閉め直した下駄箱の前で十数秒。恐る恐るもう一度開けてみると、スニーカーの上にちょこんと置かれているのは、見間違えでもなんでもなく綺麗にラッピングされた小さな箱だった。金色のラメ入りリボンまで結ばれている。どう見ても本命です、というような、私でも知っている有名菓子店の包装紙だった。これがお菓子だということに驚きはない。なんせ、今日はバレンタイン。乙女が浮かれるバレンタイン。私だって、友達と手作りお菓子の交換会をしてきたばかりだ。学年一可愛いと言われる隣のクラスの女の子からもクッキーを一袋ゲットして、意気揚々と帰宅するはずだったのに。
 なんだこれは!
 どうして私の下駄箱に!
 もしかして、と私は隣の下駄箱に書かれた出席番号を一瞥した。どの下駄箱にも貼られたシールにはそれぞれクラス番号と出席番号が書かれている。隣の下駄箱は、長谷部くんのものだった。この学校一イケメンと名高いクラスメイトの男子である。送り主は、彼と私の下駄箱を取り違えたのではないだろうか。長谷部くんは朝から休み時間のたびに、引きも切らず訪れる女生徒の贈り物攻撃で辟易した顔をしていた。露骨に顔を顰めるイケメンに、それでも勇気を振り絞って手渡しできる女子があれだけいるのなら、直接は渡せないけど渡したいという奥ゆかしい女子がいてもおかしくはなかった。しかし、なんということだろう。明らかに女もののスニーカーが入っている靴箱と、彼の(たぶん)大きな靴の入った靴箱を間違えるなんて、そそっかしいお茶目さんもいたものだ。
 包装紙とリボンの隙間に、小さなメッセージカードが挟まれていた。きっと、勇気を振り絞って書いたのだろう。彼へ宛てた一言は、もしかしたら「好きです」なんて甘酸っぱいものなのかもしれない。どこの誰が間違えたのか知りたいという欲求よりも、これを正しく贈り先に届けなければと思ったのは、それが私にも身に覚えのある感情だったからだ。どこかの誰かほどには勇気が出せなくて、ただ心の中で想うだけの、密かな恋心なのだとしても。同じく恋する女としては、このなけなしの勇気を、笑うことができなかったのだった。
 そうなると、私にできることは一つである。このプレゼントを長谷部くんの下駄箱に入れる。ただそれだけなのである。
 私はきょろきょろと周りを見回した。幸い、私以外に人はいない。他人のものとはいえ、男子の下駄箱に贈り物を入れるなんてドキドキする。誰にも見られていないうちに、さっさと終わらせてしまおう。
 どさどさっ。
「……」
 長谷部くんの下駄箱を開けた瞬間、沢山の可愛いラッピングが落ちてきた。呆気にとられて思わず口が開く。なんと、長谷部くんの大きな靴を避けて、隙間へ詰め込むように沢山のお菓子の箱や包みが押し込まれていたのだ。少し考えれば分かることだった。あの気難しい長谷部くんに直接手渡す勇気なんて、出せる乙女は限られている。怖い、恥ずかしい、緊張する、迷惑になるのでは。どんな理由にせよ、直接手渡せない奥ゆかしい乙女のほうが、数が多いに決まっている!
 ため息をつきながら、私はひとつひとつのラッピングを掴みあげて、ぎゅうぎゅうと下駄箱に押し込んだ。人の贈り物をなんて乱暴な、と言われるかもしれないが、そうしないと入らないほど数が多かったのだ。持ちきれなかった分を拾おうとする間に、押し込んだお菓子がまた落ちてくる。一体、どうやって蓋が閉まっていたのか分からない質量である。物理の法則を無視してたんじゃないだろうな!?
「おい」
 何度目にしゃがみこんだ時だっただろう。聞こえた声で、私は文字通り飛びあがった。まだ履いたままだった上履きの底が、コンクリートの上でぱたんっと音を立てるくらい、私は普通に飛びあがった。
「人の下駄箱を開けて、何してるんだ」
 廊下からこっちを見下ろしていたのは、巨大な紙袋に沢山のお菓子を詰め込んだ長谷部くんだった。
 彼は私の足元に散らばる可愛い包み紙たちと、私が抱えた包み紙たちと、靴の周りを埋め尽くす包み紙たちを順番に確認して顔を顰めた。朝から何度も見た顔だった。
「ご、ごめん」
 廊下からこちらへやってきた長谷部くんは、靴箱を埋め尽くしていたお菓子を紙袋にぽんぽん投げ込んで靴を履き替えた。
「あの、これも」
 落ちてしまったお菓子と、私が手に持っていたお菓子を長谷部くんに差し出すと、無言で紙袋の口が開かれた。乱暴にならないように、抱えていたお菓子をそこへ入れた。
 長谷部くんは、なぜ私が彼の靴箱を開けていたか理由を聞くこともなく、そのまま「じゃあな」と踵を返していく。問い詰められたところでうまく説明できなかっただろうから、私はほっと胸を撫でおろした。また明日! それだけ言って、背の高い後ろ姿をぼけっと見送り、彼の背中が見えなくなったところでようやく自分の下駄箱に向きなおった。
「あ」
 私の靴箱の中に、例のお菓子が残ったままだった。


   ***


 全力疾走なんてしても、鈍足の私に出せるスピードはたかが知れている。長谷部くんが駅まで徒歩通学で助かった。
「は、長谷部っ、くんっ!」
 走りながら叫ぶのは、めちゃくちゃしんどい。みっともなく乱れた自分の足音が、心臓とともに耳のおくでどんどん大きな音で響いた。長谷部くんは私に気付いて足を止めてくれた。
「こ、これ、も……っ!」
 リボンの揺れるラッピング。大本命間違いなしのチョコレート。息苦しいのを我慢して、私は誤解されないようにまくしたてた。
「わ、私の下駄箱に入ってて! たぶん、長谷部くん宛のを間違ったんだと思うの。受け取ってあげて……!」
 住宅街のど真ん中だった。綺麗な包装紙の小箱を差し出す私と、それを見下ろす長谷部くんの二人を、自転車のおばさんが追い越していく。興味津々といった視線が痛かった。違うんです、私は別に告白しているわけじゃなくって、忘れ物を持ってきただけで。自分の分も手渡せないのに、他人からの贈り物を好きな人に差しだしている現状は、多少なりとも胸が痛かった。でも、自分のものじゃないから、勇気が出せる。これが私からのものだったなら、長谷部くんは受け取ってくれただろうか。
「それは俺宛のものじゃない」
「え」
 長谷部くんはそれだけ言うと、また足を動かし始めた。きっぱりと言われた言葉の意味が分からず、私は遠ざかる背中を追いかけることができなかった。
「な、なんで分かるの!?」
 叫んだ疑問に、長谷部くんは答えてくれなかった。長谷部くんへのチョコじゃなかったら誰宛なんだ!? 手掛かりはこのチョコだけだ。差出人も何も書かれていない――、待って、メッセージカードがあるじゃん!
 破らないようにカードを抜いた。薄紫の上品なカードを開いて、書かれた文字を目だけで追う。
 メッセージは短かった。けれど、一文字一文字が丁寧で、心がこもっていて、だから。
「嘘でしょ……」
 私はその場にしゃがみ込む。長谷部くんを追いかける勇気なんてなかった。





 『が好きだ   長谷部国重』