拝啓長谷部先生



 『拝啓 長谷部先生。あなたがまたあの街に、あの学校に戻ってきたと知り、いてもたってもいられず筆を取りました。十年前、あなたに教わったことは、今でも私の中に刻まれています。生きていく上では何一つ役に立たない数学の公式も、まだいくつか覚えているほど、あなたは私の人生に大きな足跡を残しました。何より深く残っているのが、どんな足跡か覚えていらっしゃるでしょうか。あれから十年が経って、私はあの頃のあなたと同じ歳になりました。あの頃は二十七歳のあなたが随分大人に見えたものでしたが、自分がなってみるとまだまだ子どもだということがよく分かりました。あの頃の先生は、きっとまだ子どもだったのでしょうね。今日まで幾人もの男性とつき合いましたが、あなたが教えてくれたほどの物事を、私に残した人はいませんでした。私は見た目の通り、あなたが求めた通りの淫乱になって、いまでもあなたの指や、あなたの男の象徴を思いだしながら、他の男に抱かれています。先生。私の中にあなたが残した足跡の、いいえ、傷跡の大きさを、あなたが覚えているとは思いません。ですが一つだけ、あなたにお願いしたいことがあります。もう誰も、あなたの毒牙にかけないでください。どうかお願いします。乱文で失礼しました。ですが二度と、あんな悲劇を繰り返さないためにも、どうかお願いします。敬具』


 春のまだ冷たい風が、窓から吹き込んで白いカーテンを揺らしていく。心地いい風だ。読み終わったばかりの手紙を封筒に戻して、俺は冷えたコーヒーの残りを啜った。
「あら、長谷部先生。その手紙は?」
「昔の教え子からです。この学校に戻ってきたことを、聞いたようでして」
「あらあら。随分慕われていたのねぇ」
「いえ、こんななりですから、随分舐められていましたよ」
「またまた。若い先生は人気があるものよ」
「もう、そんな歳でもありませんけどねぇ」
 言いながら、俺は教科書やノートとともにチョークケースを持って立ち上がった。次は2組の授業なのだ。休み時間がそろそろ終わる。同僚の教師に行ってきますと声をかけて、職員室を後にした。
 懐かしい場所だった。初めて赴任してから、五年を過ごした場所だった。古めかしい名前の学校は、その名に恥じぬだけの歴史を持った学校で、生徒数もそこそこ多い。箱庭のような校舎の中は昔からちっとも変わらず、まるで時が止まったような錯覚に陥る。四年目と、五年目に俺が出会った愛しい人を思いださせる。そら、その陰からまた彼女が飛び出して、長谷部先生と笑うような気がした。
「長谷部先生っ!」
 ふわりと、桜の花の香りがした。ひとひらの花弁が足元に舞う。飛び出してきたのは、受け持つクラスの女生徒だった。確か、名前は。そうだ、あの少女と同じ苗字のはずだ。確信をもちながら、それでも俺はその名を呼ばず、足を止めたまま少女を見下ろした。少女は随分と小柄だった。
「どうした」
「五分! 五分だけ遅刻を見逃してくださいっ!」
「はぁ?」
「わんっ!」
 鳴いたのは、彼女が抱えた上着だった。汚れたそれがもぞもぞと動き、ふわふわの脚が一本突き出す。
「うわっ」
「…何を拾ったんだ」
 聞くまでもなく、肉球の愛らしい足がジタバタと空を掻く。わん、ともう一度その足が声をあげた。
「ほ、保健室の先生なら、預かってくれるはずなんで、戻ってくるまでの間だけ見逃してもらえると嬉しいなぁ、なんて…!」
「……そんなことができるわけないだろう。先生が先に教室へ着いたら、間違いなく遅刻だぞ」
「うっ」
「だから早く預けてきなさい。それで、先生より早く教室に入る。それなら遅刻にはならない」
「! あ、ありがとうございますっ!」
「走って転ぶなよ」
「はいっ!」
 まるで彼女が犬のようだ。見えないしっぽが見えるような気がして、小さな体が保健室に吸いこまれていくのを眺めていた。開け放った廊下の窓から、薫風が吹き込む。一瞬、彼女かと思った。声がよく似ていたような気がする。もう十年も昔のことだ。そんなわけがない。彼女であるはずがないのに。また再び魂がめぐるなら、早くても小学生だろうし、転生がそれほどスムーズなものとも思えない。俺だってこの体に生まれるまでに、あれからいくらの時を費やしたか知れないのだ。
「長谷部先生!」
 再び声が聞こえた。ああ、やっぱりよく似ている。かつての俺の愛しい人に。
「すみません、お先に失礼します」
「走るなら、前をちゃんと見ろ」
「はい! あははっ、先生、廊下は走るなって言わなきゃ駄目ですよ!」
 どの口が言うのだろう。次の授業で、必ずこいつを指名してやろうと思った。


   *


 姉がいるのだ、とその子は言った。十歳年が離れていて、姉も同じ学校に通っていたという。今は都会に移って仕事をしているから、メールと電話で話をするのだ、とも。
「長谷部先生のこと話したら、すごくびっくりしてましたよ。すぐに長谷部先生だって分かったみたい」
「そうか」
「この間の写真送ったら、全然変わってないって驚いてました」
「この間の写真? ちょっと待て、消すと言ってたじゃないか」
「へへへ」
「……はぁ、十年も経つんだぞ。さすがに老けただろう」
「それを確かめるために、今度姉が帰ってきたら、卒業アルバムを見せてくれることになってます!」
 放課後の職員室に入り浸る生徒は多くはない。彼女も別段、入り浸っているわけではない。担任に頼まれたノート集めを終えて、ついでに俺と雑談をしているだけだ。十年前の教え子、か。懐かしい。そして彼女の姉には、確かに覚えがあった。数少ない、俺の記憶に残る生徒だった。
「姉のこと覚えてますか?」
「ああ、覚えてる」
「どんな生徒でした!?」
「数学は、君よりできたな」
「うっ!」
「小テストだからって気を抜くなよ。内申に響くぞ。これから大事な時期だろう」
「ううっ! わ、私は姉と違って文系なんです!!」
「あら〜? だったら国語の小テストも、もうちょっと頑張ってほしいわね?」
 俺たちの話を聞いていたのだろう、同僚の教師がくるりと椅子を回して彼女に言う。そうか、国語もそれほど良くはないのか。自分の教科だけが悪いと、やはり落ち込むものだ。同僚の言葉で、少しだけ俺の気が楽になった。
「うわーん、四面楚歌! 先生たち、よってたかって苛めないでください! 私、もう行きますね!」
「廊下は走るなよ」
「分かってます!」
「勉強もしろよ」
「うわーん!」
 走るなと言ったのに、ばたばたと廊下を叩く靴音がする。職員室では失笑が漏れていた。まったく、賑やかなことだった。


   *


 時々、俺のもとに手紙が届く。最初は学校に届いていたそれが、途中から自宅に届くようになった。住所を調べたのだろう。そうまでする価値が、俺にあるとは思えない。抜け殻のような人生だった。十一年前、彼女に出会うまでは。そして十年前、彼女を失ってからも。その俺が、いままた一人の少女のことで頭の中を満たしている。最初は似ていると思った。次に愛らしいと思った。胸を満たしていく温もりに戸惑ううち、それがいつかに感じた温もりと酷似していることを思い出した。だったら、これは恋なのだ。馬鹿にもほどがある。二十も年下の小娘に。まだまだ女とも呼べないほどの無邪気な少女に。けれど確かに俺は彼女の姿を思い描きながら、男としての自分を慰めてしまったのだ。逃げる方法など思いつかなかった。恋とはそういうものだ。どうにかできるものならば、とっくに昔の俺が斬り捨てている。この厄介な感情を抱えて生きることが、どれだけ業の深いものなのか、長い記憶の中で嫌というほど知っていた。忘れてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。そう思うのは、眠る前と目覚めた直後の短い時間だけだった。一度気づいた恋心を、俺はうまく隠せていたと思う。隠すしかなかった。消すことが出来ないのだから。表に出すことも、してはならないのだから。ここは生きにくい世界だ。……いや、俺がいた世界が、生きやすい場所だった例(ためし)などない。いつだって世界は残酷に出来ている。それを知っているのに、いまの俺は臆病だから死ぬこともできないのだった。


   *


 長谷部、とその唇が動くのを、俺は呆然と見ていた。長谷部先生、ではなかった。確かに彼女は、長谷部、と言った。相談事があると言ったのは、彼女だった。随分と深刻そうに見えた。夏服の袖から伸びる腕がしなやかで、彼女の健康的な脚にようやく見慣れたばかりだった俺は視線のやり場に困っていた。誰もいない書道室の鍵を、国語科の同僚に借りた。少女から相談があると言われた時、その場に同僚もいたのだ。保健の先生に話したほうがいいんじゃないか。そう言った俺にどうしても長谷部先生がいいと譲らなかった少女は、俺が書道室の扉を閉めるなり、俺の胸に飛び込んできた。そして言ったのだ、長谷部、と。
「……どうした、教師を呼び捨てにするもんじゃないぞ」
「長谷部、覚えてないの?」
「っ!?」
「やっと、思いだしたの。長谷部。へし切長谷部」
「っ……ある、じ?」
「長谷部!」
 ぎゅっと、俺の背に回された細い腕が、温かい羽毛のように俺を包んだ。主? 本当に? この少女が?
「良かった、記憶はあるんだね! でも、転生って不思議だね。私はずっと忘れていたし、長谷部は私が主だって分からなかったんだね」
 変なの。いつものように、少女は無邪気に笑った。俺の肋骨のあたりで。すりすりと、その頭が俺の体を擦り、体温が伝わる。若く柔らかい体が俺に押し当たって、それほど大きくはない柔らかな胸の膨らみが、俺の形に押し潰される感触がした。
「主」
「うん」
「本当に、主ですか」
「そうだよ」
「……っ!」
「んっ」
 頭で考えるより先に体が動いていた。それが当然のことだった。なぜなら俺は、俺たちは、かつていつかの本丸で、永久の愛を誓った仲だったのだ。ぬるりと絡めた舌は甘く、俺の体は素直に熱を帯びて疼いていった。無邪気一色だった彼女の表情に、女の色気が混ざる。どこに人の目があるか分からない。どこで誰の耳が聞いているか分からない。それなのに、俺たちはただお互いの存在を確かめただけで、堰を切ったように止めることができなくなった。俺ばかりではない。彼女もそうだった。俺がスラックスの前を開く間に、彼女は自分でスカートをたくし上げていた。駄目だと思う余裕もなかった。声を殺す彼女の股間を舌で潤し、壁に手を突かせて後ろから繋がった。初めてのはずだ。痛いに違いない。けれど彼女は自ら腰を突き出して、俺に股を開いてみせたのだ。求められるまま、腰を振るった。いくらも経たないうちに出してしまったけれど、彼女の負担を考えるとそれで良かったのだろう。中から垂れてくるものをポケットティッシュで拭いながら、申し訳ありませんと呟くと、彼女は黙って俺の頭を撫でてくれた。赤く白く汚れたティッシュが、俺たちの罪の証だった。
 幸運にも、初めての交わりでは妊娠が避けられた。それから俺は常にゴムを持ち歩き、隙があれば彼女とまぐわった。短い時間で達するために、彼女も俺を攻めるためのあれこれを覚えていった。接点は学校だけ。俺たちが繋がるのは学校の中だけだった。それがどれほどリスキーであるかは、俺も彼女も分かっていた。それでも。目が合えば体が熱くなる。名を呼ばれれば有頂天になる。どうにもできない。それが恋だからだ。いつの間にか俺は、彼女が誰かに似ていたことを忘れてしまっていた。


   *


「……お姉ちゃんに、ばれた」
 主がそんなことを言ったのは、あと数日で冬服に変わるという日の放課後だった。一日中どこか上の空だった彼女が心配で、俺は適当な理由をつけて彼女を冊子作りの手伝いに呼び出した。紙の種類が多いからと、空き教室を借りての作業である。俺たちのほかには誰もいない。
「お姉ちゃん?」
「十年前の、長谷部のことを知ってる人だよ! 昨日、電話で話してたら、様子がおかしいって言われて」
 長谷部、といつもの調子で呼び捨てにしてしまったのだという。いつからそんな風に呼ぶようになったのかと、彼女の姉はしつこく食い下がってきたのだという。辟易して正直に話してしまったら、姉は休みを取って戻ってくるという。
「長谷部、お姉ちゃんに何かしたの?」
「……」
「長谷部?」
「っい、いえっ」
 考え事をしていた俺は、慌てて主に笑みを向けた。
「十年も前でしょう。細かいことは忘れてしまっていて。あなたのお姉さんは、随分モテていましたが」
「む。長谷部がお姉ちゃんのこと覚えてたのって、そういう理由だったの?」
「ははっ、やきもちですか?」
「違うもん!」
 つき出された唇に、ちゅっと口付けると大人しくなった。ぱちり、ぱちりと紙を綴じる音は俺の手元から。彼女の手は止まってしまっている。
「でも、お姉ちゃんなんで戻ってくるんだろう」
「さすがに、二十も年の差があると驚いたのでは?」
「でも長谷部、どう見ても三十七には見えないし」
「そうですか?」
「二十代で十分いける」
「逆にそれもどうかと……」
「大丈夫、格好いいよ」
 長谷部がおじさんでも大好きだよ。愛らしい言葉に破顔する。手元のスピードが更に上がって、ぱちりぱちりと冊子が増えていった。
「俺もです、主。愛していますよ」


   *


 最悪だった。ちょっと廊下を急いで歩いていただけじゃない。まだ走る一歩手前だったのに。埃っぽい資料室に頼まれた箱を投げ入れて鍵を掛ける。がちゃんと軽い鍵がかかったのを確認して、さっさと帰ろうと踵を返した時だった。手を叩くような音が聞こえた。何の音だろう。
「はせべ…っ」
「ある、じ」
「やっ、ぁ…っ」
「あるじ、ここが好いですか…っ?」
「あっ、きもち、好い…っ」
「はは、吸い付いてくる…っ、あるじっ」
「やぁんっ」
「もっと、もっと感じてください…っ。あるじっ。あるじっ」
「あぅっ、は、せべ…っ」
 資料室の隣の、隣。理科準備室の薄暗い机の上で、見知った少女の間に体を捩じ込んでいる男に目を疑った。整った顔立ちにいやらしい笑みを浮かべ、剥き出しの尻を振って少女の体を揺さぶっている。拍手のようだと思ったそれは、少女の細い腰と、男の逞しい腰がぶつかる音だった。ぐちゅぐちゅと濡れた音が微かに聞こえた。男が少し体位を変えて、繋がった部分が露わになる。太い陰茎が少女の膣を貫いていた。激しく抜き差しされている。声を出さずに、よくその場から離れられたものだと今でも思う。甘ったるい声で教師を呼び捨てにした少女の声と、興奮しきった男の表情が頭から離れなかった。


   *


「長谷部先生、お客さんですよ」
 俺に声をかけたのは、親しくしている国語科の同僚だった。彼女はまったく面倒見のいい性格で、二人いるという子どもの話が長い他は至極つき合いやすい人柄だったから、俺は随分と彼女の世話になっていた。
「客?」
「ふふふ。長谷部先生もスミにおけないわぁ。って、こんな美男を捕まえていう言葉じゃないわね。美人がお待ちよ」
 含み笑いをした彼女は、職員室の入り口を示した。品のいいスーツを着て立っていたのは、確かに美人に分類される女性だった。彼女の、姉だ。
「教え子なんですって? 積もる話もあるでしょうから、また書道室使ってもいいわよ。でも、あまり熱烈な歓迎はしないでちょうだいね」
 珍しく下世話なことを言われたのに、俺はそれを窘めることもできずに席を立った。俺にぺこりと頭を下げる女は、記憶にあるより随分と落ち着いていて、確かに俺たちには十年の歳月が過ぎたのだと教えられた気分だった。
 書道室の蛍光灯が、随分と白々しく見える。彼女はどこの席にも腰かけず、同じく立ちっぱなしの俺を真正面から見据えていった。
「お仕事中に失礼かと思ったんですが、お休みの日だとお話が出来るか分からなかったので。突然押しかけてごめんなさい」
「いや」
「何の話かと思われるでしょうけど、単刀直入に言います。妹と別れてください」
 全くなんの躊躇いもなく、毅然とした態度で彼女は言った。妹から俺との関係を聞き出して、実に四日後のことである。随分と行動的だ。そして、迷いがない。
「なんのことだ」
「とぼけないでください。妹に聞きました。あなたが、妹と好き合っているのは知っています。……あんなに手紙を送ったのに、どうして……」
 最後の独り言で、俺は彼女から届いていた手紙を思いだす。初めて届いたのは、春先のことだった。主から姉の話を聞いたのと前後して届いたのだ。十年前の悲劇を繰り返すなと、手紙で彼女は再三俺に注意をしていた。そうとも。悲劇は繰り返すべきじゃない。だから俺も我慢していた。彼女が主と分かるまでは。ただの恋ではなかったと分かるまでは。
「君こそ、どうしてそこまで躍起になるんだ」
「妹は……、妹はあの子に似ているでしょう。雰囲気が、すごく」
「ああ。そうだな」
「だから、あの時みたいに、今度は妹が……」
「……君には分からないだろうが、十年前とは状況が違う」
 女の憶測は現実になったが、あの時惹かれた少女の顔を俺はもう思いだせなくなっていた。それを知ったら、目の前の女は薄情だと怒るだろうか。それとも蔑むだけだろうか。わざわざ火種を口には出さずに、俺はあたりさわりのない言葉を選んで彼女の杞憂を晴らそうとした。十年前はただの恋だったのだ。主によく似た雰囲気の少女に恋をした。愛していると言いながら、その体をただ肉欲のはけ口にするためだけに抱いた。今と同じように、この校舎で何度も、何度も。いとけない少女は俺の情熱にほだされてその体を開き、俺の主のふりをしてくれた。はせべ、と拙く呼ばれることが好きだった。確かに好きだったのだ。その喪失に耐えられず、ここを去るほど追い詰められるくらいには。
「何が違うって言うんですかっ!?」
 女の口調が初めて険しくなった。違うだろう。あの時とは。なぜなら、君は、もうここの生徒じゃない。
「陳腐な表現だが、君の妹は俺の運命の人だ。十年前はそうじゃなかった」
 言って自分で笑ってしまう。言葉にするとなんて安っぽく聞こえるのだろう。案の定、女は眉間の皺を深くした。その口が反論を音にする前に、俺は先んじて言葉を続けた。
「それに君はもういない」
「っ!」
「君がいう『悲劇』の幕開けは、もうここにいない。そうだろう?」
 十年前。秋の長雨の季節だった。高校二年になった主と俺の関係は蜜月のようで、俺は毎日を愉快に過ごしていた。主が高校を卒業したら、正式にプロポーズをしよう。同じ家に住んで籍を入れ、可愛い子どもに恵まれて暮らす。そんな夢が崩れたのは、目の前の女が俺に囁いたからだった。
『長谷部先生の秘密、わたし、知ってます』
 女は僅かに震える声でそう告げて、俺と俺を愛した少女の愛の営みを俺の前に掲げて見せた。当時の画素数の低い携帯カメラでも、俺たちが何を行っているかは一目瞭然だった。少女の顔はかろうじて分からない。けれど写真の中で喘ぐ男は、誰が見ても俺だと分かるようになっていたし、その男が組み敷いている少女は確かにこの学校の制服を着ていたのだ。俺は愛した少女のためにも保身に走らざるをえなかった。金か、それとも内申か。けれど女が口にしたのは、もっと酷いものだった。
『この子の代わりに、私を抱いて』
 断れるわけがなかった。既に幾人に抱かれたのか、女の膣は簡単に潤って緩み、俺を飲み込んで歓喜する。体温とは裏腹に冷えていく心が女を蔑み、俺の口は女を罵って止まらなかった。それすら嬉しそうに女は喘いで俺の精を強請った。出して。中に出して! 煩い口を手のひらで塞ぎ、愛しい人にも我慢していた吐精を、女の胎にぶちまけた。一度だけの約束だった。その口約束を律儀に守った女はしかし、その一度だけの情交を彼女に漏らしたのだ。俺の愛しい人に。そして俺がただの一度も恋人に許さなかった中出しを、一度限りの女に許したことで傷ついたのだと。そう。俺へ宛てた手紙に書かれていた。彼女がいなくなった翌日に届いた手紙には、涙が滲んだ跡があった。彼女の心がどれほど俺に傾いていたのかを、その脆さとともに俺はその時初めて知ったのだ。
「それに、君の妹は、彼女ほど弱くはないだろう」
 がらがらと音を立てて教室の扉が開いた。廊下から顔を覗かせたのは主だ。中にいる俺と姉を認めて、うえぇ、と妙に懐かしい声を出した。
「やっぱりお姉ちゃんじゃん! 何でいるのよー!」
「主」
「えっ、長谷部その呼び方! っあ!!」
「ははっ」
 まったく迂闊で可愛らしい。見事に墓穴を掘った主に向かって、俺は足を踏み出した。悲しい記憶を遡ったせいか、心が酷く冷えていた。主に触れて温まりたい。指に触れるだけでいい。女は俺たちのことを知っているのだ。隠す必要など、どこにも。
「……どう、して」
 低く、女の声がした。振り返ったそこに、女の頭があった。虚ろに瞬く瞳に、俺の腹が写っている。酷く熱い。焼けるように。女の手が握っているものが、俺の腹に吸いこまれていて、そして。
「いやぁっ!! お姉ちゃんっ!?」
 主、そこは俺の名を呼んでください、と。場違いな指摘は音にならず、ひゅっと喉が鳴るだけで掻き消えた。噴き出した血が、周りの机や椅子に飛び散り、床に滴る。ああ。見慣れた光景だ。何度も見てきた。あの時。あなたの元で。主。
「っ、どう、して! どうして私じゃないのよぉ…ッ!」
 ざく、ざくと耳につく音がする。不思議と痛みは感じない。主を、逃がさなければ。
「……っる、じ、にげ……っ」
「いやっ! 長谷部っ!! お姉ちゃんやめて…っ!!」
 目の前で、女に飛びつく主の制服。夏服の眩しいほどの白が、朱に染まる幻影。
「っ、やめろ…っ!!」
 咄嗟に主の腕を引く。空を切った切っ先が再び主に向かう前に、二人の間に体を滑りこませる。焼けつくような痛みが背に圧し掛かって、同時に腹の痛みが噴き出した。限界だ。
「ある、じ、逃げて……っ」
「は、せ…っ」
「必ず、追います、…っなん、ど、でも…っ!」
「いやっ」
「後生、です、…っあるじ…っ、いき、て…っおれ、っを……」
「っ、長谷部っ、待っ、てて、人、呼んでくる…っ!」
 青ざめた顔で主が教室の出口に向かうのを、女が追おうとしていた。その足首に手を伸ばす。転げた女が机を倒し、派手な音を立てた。行かせない。俺の手に刃が振り下ろされる。はっ、そんななまくらをよく振るえたものだ。俺は長谷部。へし切長谷部。俺ほどの業物を用意してみろ。でなければ、死んでも俺がこの手を離すことはない。


   *


『○○日午後16時30分ごろ、△△市立○□高等学校の校内で、男性教諭(37)が全身を刺されたと119番通報がありました。駆けつけた警察官が、刃物を持った女を取り押さえましたが、男性教諭は意識不明の重体で緊急搬送され、その後死亡が確認されました。△△警察署は○○日、殺人容疑で同校の元生徒である会社員の女(27)を逮捕しました。警察の調べに対し、女は十年前に同校で起こった飛び降り事件についても関与をほのめかしているとのことです。また、女の妹で、同校の生徒である女子生徒(17)も軽傷を負いました。警察は女子生徒が事情を知っているとみて、事情聴取を行っています。――次は、天気予報です』


   *


 薄っすらと、青い。ここがどこだか分からないが、また振り出しに戻ったのだということだけは分かっていた。まったく、人の身になるのも楽ではない。次はいつ主に会えるのだろう。次こそ上手く立ち回りたいものだ。また主を一人にしてしまった。あまり泣いていないといいが、それは無理な気もした。いつの時代も、主はずっと泣き虫だったから。ああ、主。早くあなたとつがいになって、年老いて死ぬまで傍にいたいものですね。老衰とまではいかなくても、今回みたいな幕切れは、なるべく避けるよう、次こそ頑張りますので。
「ちゃんと追いかけますから、生きて俺を待っていてくださいね」