夏の日の二人



 ショートパンツのポケットで、スマホのバイブが鳴っている。でも手が届かない。私の両手は長谷部くんにしがみつくので精いっぱいだったから。足元でくしゃくしゃになった綿パンに、汗が落ちていく。そのポケットでバイブが鳴る。風で木々が揺れる音。ふらつきそうな足元で砂利が音を立てていて。でもそれよりももっと強く、もっと大きく、私たちの呼吸と肌のぶつかる音が響いていた。
 だめ、と上擦った声を出した私を咎めるように、長谷部くんが腰を揺すって、私の中を掻き回すから。だめ。だめだよ。もう、やだっ。むりっ。泣きそうな声で私が縋りつくのを、たぶん長谷部くんは嬉しそうに見ていた。


「ね、なんで出なかったの?」
「何が?」
「昨日の夜! 何回も電話したのに!」
「急に気分が悪くなって、先にお風呂行ってたから」
「だからって、あとからライン入れるくらいできたじゃない?」
「しー、先生、こっち睨んでる」
 それほど大きくない講義室に十数人の学生が並んでいる。田舎の安い研修施設。昨日から始まった二泊三日の勉強合宿には、教員三名とゼミに所属する学生十数人が参加していた。昼間の勉強よりも、夜の宴会やバーベキューに重きを置くような合宿だ。昨日の夜も、バーベキュースペースでの焼肉のあと、持ち寄った花火で遊ぶ予定だったのだ。結局、私は花火を供出しただけで、その輪には混ざれなかった。ちらりと視線を前に戻す。最前列の端で真面目そうにノートをとっている長谷部くんに、私の視線は少しだけ揺らいで、また手元に戻ってきた。
 昨日の夜、長谷部くんとセックスしてしまった。
 今もまだ、耳元に長谷部くんの呼吸を思いだしてしまう。熱くて大きなごつごつと骨ばった手が肌の上を這いまわっていた。普段はそっけない唇が、何度も私の舌を求めてキスをしてきた。あれは一体何だったのだろう。どうしてあんなことになったのだろう。私は昨日からそればかり考えていた。
 ほんの、一時間もしない間だった。バーベキューも終わりに近づいて、アルコールばかりの飲み物に手をつけられなかった私は自販機を探してみんなのそばを離れたのだ。研修施設はそこそこ広く、もの覚えの悪い私には自販機がどこにあるのか皆目見当もつかなかった。ウロウロと彷徨ううち、明かりの消えた建物の傍にようやく眩しい光の塊を見つけて駆け寄った私は、すぐそばに長谷部くんがいるなんてちっとも気付いていなかったのだ。
 がこん、と落ちたペットボトルを拾いあげた瞬間だった。不意にお腹に回された腕が私を引きずるように暗闇へ連れ込んだ。自販機の灯りの影になる建物の裏。壁に押し付けられ、気付いた時にはキスされていた。悲鳴をあげる暇もなく、そのまま服を脱がされて、剥き出しになった股間に押し付けられたものが、男の人のそれだと気づいて背筋が凍りついたのに。混乱する私の耳元で「静かにしろ」と聞こえた声が、長谷部くんのものだったから余計に私はパニックになった。
 熱い長谷部くんの塊が、ごりごりと私の柔らかい場所を擦りあげていく。いや、と漏らした声はまたキスに塞がれて、そのまま長谷部くんの手が肌を撫でまわすのに耐えるしかなかった。長谷部くんの手付きは強引ながらどこか優しい。絶対に痛くない触り方で、私の体温を的確に高めていく。なんで。どうして。わけが分からないのに、長谷部くんの指や男性の象徴が、私の淫靡な感情を引きずり出していった。キスだって初めてだったのに。上顎を舌で撫でられて甘えた声が出たのをきっかけに、長谷部くんは私の片足を担いでそろそろと挿入し始めてしまった。
 無防備な状態で直に男の人と触れ合うなんて。きっと誰かと間違えているのだ。キスで知った長谷部くんの舌はお酒の味がして、彼が酔っているのは明白だった。無理矢理に擦りあげられる膣内が痛い。いやだとも、いたいとも言ったのに、長谷部くんの動きは早くなるばかりでちっとも止まってくれなくて。倒れてしまうのが怖くてしがみ付いた私を、長谷部くんはしっかりと抱き締めたまま抽挿を繰り返した。荒くなる呼吸。その合間に、名前を呼ばれて、彼が人違いをしているという考えも弾けて消えて。一体何がどうなったのか分からないうちに、とうとう長谷部くんは私の太ももにべったりと精液を放って果ててしまったのだった。
 痛みと、困惑しかなかった。長谷部くんは「ごめん」とも「大丈夫か」とも、それこそ「好きだ」なんてことも言わず、ただ一言「風呂に入ったほうがいいな」と呟いて、汚れた私の太ももを手のひらで拭っていた。それから私に下着やショートパンツを元通りに履かせると、もう一度だけキスをして私の手を引いて歩き出したのだ。痛みで私の歩みは鈍く、その時間はやけに長く感じた。向かった先はバーベキュースペースでも、花火をやる約束になっていた駐車場でもなかった。宿泊室のあるコテージまで私を送り届けて、最後に「おやすみ」と口にしたきり、長谷部くんは後ろも振り向かずに去って言ったのだ。それまで私は、長谷部くんと挨拶程度の言葉しか交わしたことがなかった。
 端的に言えば、レイプだった。
 私は長谷部くんにレイプされて、無理矢理に処女を散らされた。だというのに、どうして私はこうも平然とした顔をして、講義なんかを聞いているのだろう。昨日の夜は、気分が悪くなったことにして早々に休んでしまったから、私と長谷部くんが花火に出なかったことをみんながどう思っているかは分からなかった。
 窓の外で、蝉が鳴いている。
 それはとてもうるさくて。
 長谷部くんの吐息が、耳元に響くようで。
 だから。
 だから。
「先生、すみません」
 私がゆらりと立ちあがるのを、周りの全員が見ていた。長谷部くんも。
「気分が悪いので、部屋で休んできます」
 大丈夫?と訊いてくれたのは、さっき電話に出なかったことを責めていた女の子だった。根は面倒見のいい子なのだ。ありがと、大丈夫。そう言って、ノートをかき集める。長谷部くんが見ている。誰か付き添ってやれ。先生の言葉に立ちあがったのは、長谷部くんじゃなかった。大丈夫?と声をかけてくれた女の子だった。
「クーラー、付けとくね」
「うん」
「ほんとに、大丈夫? 顔色悪いよ」
「寝てれば大丈夫だと思う」
 嘘を吐いたはずなのに、顔色が悪いと言われて笑ってしまう。体は疲れているのかもしれない。昨日はなかなか寝付けなかったから。今も、痛むのだ。長谷部くんが強引に割りこんだ場所が。それと、心も。
「お昼ご飯どうする?」
「ん……わかん、ない……」
「後で様子見に来るね」
「ありがとう……」
 明るい中でなら、長谷部くんのことを思い出さずに眠れるような気がした。

 こんこんと音がなる。それは長谷部くんが無理やり私の子宮を叩く音。乱暴に。でも情熱的に。呼吸を跳ねさせて。甘いキスをして。何度も。
「ん……」
 手元の時計は正午を少し過ぎたところだった。あれから一時間半ほど眠っていたのだ。体は怠く、頭も重かったけど、それはたぶん夢でまで長谷部くんとセックスしてしまったからだろう。ひどい悪夢だった。
 こんこん。
 夢で聞いたのと同じ音がして、思わず私は体を強張らせた。そろそろと周りを見回す。部屋には誰もいなかった。当然だ。お昼ご飯の時間なんだから。こんこん。また同じ音がした。窓のほう。視線を向けると、カーテンのかかった窓の外に、誰かがいた。
 近づいては行けない。気づかなかったふりをして、何も聞こえなかったふりをしていなければ。そう思うのに、体は動いてしまっていた。そこにいる人が誰なのか、ほとんど私には分かっていた。カーテンを開ける。目が合う。窓を、開けてしまう。
「大丈夫か」
「……なんで」
「まだ顔色が悪いな。水分、ちゃんと摂ってるのか?」
 ことん、と窓の内側にペットボトルが置かれた。スポーツ飲料。ゆうべの自販機で買ったのだろうか。
「昼飯、食べられそうなら、一緒に行こう」
「なんで」
「ん?」
「昨日あんなひどいことしたのに、なんで長谷部くんはそんな普通なの」
 ぽろりと、涙がこぼれた。昨日は一滴だって泣かなかったのに。声が震えていく。痛かった。体も、心も痛かった。好きだったのに。長谷部くんのこと、好きだったのに。こんなことをする人だなんて、思ってなくて、格好いい人だって、勉強もスポーツもできて、すごい人だって、尊敬まで、してたのに。
「無理やり、されて、痛かったのに、全然、止まってくれなくて、怖かったのに、長谷部くん、ひどい」
「お、おい、待て」
 私はぼろぼろと涙を流していたから、長谷部くんの声がやけに焦っていることの意味が分からなかった。女の涙には弱いというやつだろうか。だったら昨日も我慢しないで泣いていればよかった。
「無理やりってどういうことだ。ちゃんと言っただろう、お前が好きだって」
「え……?」
「キスする前に、お前としたいって、嫌だったら言ってくれって。何も、言わなかったからてっきり……」
「えぇ……」
「……もしかして聞いてなかったのか……?」
「き、聞いて、ない……」
「冗談だろ……」
 そう言いながらも、長谷部くんはがっくりと肩を落としていた。私の様子から、自分の告白が聞き流されていたことを理解したのだ。
 長谷部くんの声は呆然としていた。そして、それなりにショックを受けた顔が私を覗き込んできた。
「……昨日の、嫌だったのか?」
「……うん」
「痛かったって……?」
「うん」
「……はぁぁ。ごめん。悪かった。ほんとに、最低だ」
「え、あの、」
「食堂、俺戻らないから、昼飯食べてこい。顔色悪いのに、昼まで抜いたらもっと疲れるぞ」
「えっと」
「講義のノートも、後でコピーしてやるから、昼飯食べたらもう少し休んでろ。……俺が言えたことじゃないけど。ほんと、ごめんな」
「長谷部くん」
「じゃあ、俺もう行くから」
 窓が閉まりそうになる。待って。そんな言葉は出てこなかった。
「こ、これ! あの、ありがとう」
 窓際に置かれたペットボトルを指して言う。長谷部くんは、困ったように少しだけ笑って、それから窓を閉めてしまった。涙はとっくに乾いていて、部屋の中にはクーラーの音だけが残っていた。