しずかな、よるに



 家の鍵を開ける。玄関は妻が点けておいてくれる明りで眩しく、疲労の溜まった瞼を幾度か瞬いて、俺は靴を脱いだ。玄関とは対照的に真っ暗なリビングで上着を脱ぎ、ネクタイを解いてハンガーにかける。脱ぎっぱなしで散らかすと妻に怒られるのだ。特に明日は土曜日で、久しぶりに妻と休みの合う日である。朝起きて小言をくらうのは御免こうむりたい。ダイニングには、妻の料理が綺麗にならんでラップがかかっていた。夜遅くなることを見越して量はそれほど多くなく、黙々と口にした俺はあっという間に食べ終わってしまった。次は風呂だ。温めのシャワーを頭からかぶると、烏の行水よろしくこちらもあっという間に終わった。淡々とルーチンワークを片付けた俺は、とうとう寝室に足を向けた。揃いのベッドが部屋の両端にふたつ。片方は俺の、もう片方は妻のベッドだ。廊下から入り込む明りが、妻のベッドの足元を照らしていた。視線を枕元に向けると、妻がきちんと仰向いて眠っていた。この陽気で掛け布団は胸の途中までしかかかっていない。風邪をひくことはないだろうが、無防備に放り出された両手が、寝室の闇の中で白く浮かんで見えていた。うず、と腰が疼く。だめだ。考えないようにしていたその衝動を、俺は理性で抑え込もうとした。自分のベッドへ向かって足を踏み出し、妻の方を見ないようにして自分の掛け布団に手をかけた。
「ぅうん、やだぁ…。」
 驚いて振り向くと、そこには何事もなく穏やかに眠る妻の寝顔があった。なんて明瞭な寝言だ。行為の最中のような甘えた声に耳を焼かれ、俺はほんの数秒前に振り払ったはずの情動に再び襲われて顔を歪めた。改めて振り払うには強すぎる欲求が、勝手に自分の手を動かしてしまう。すでに硬くなり始めていた股間を、パジャマの上からゆっくりと擦る。膨らみを確かめるように幾度か指を往復させ、やはりそれだけでは満足できずに太腿の半ばまでズボンと下着をまとめてずり下げた。ぼろんと零れた陰茎は、重く重力に従って頭を垂れている。手のひら全体でそれを包み込み、上を向けとばかりに扱き上げると、簡単に硬さを増して雁首をもたげていった。
(――こんなことが知れたら、また期間が延びるかもしれないな…。)
 明日に迫った約束の日を思って、俺はぶるりと身震いした。先月の休みにしでかした失態で、ここ一ヶ月、妻からセックスを禁じられているのだ。俺はいつでもしたいと思っているし、股間も素直にしばしば硬くなるのだが、妻の怒りは予想外に深く、それとなくいい雰囲気になっても、キスから先は許してくれなかった。少し強引にすればいけるかとも思ったが、よほど腹に据えかねたのか、妻は本気で嫌がるのである。嫌いになるよと言われたら、俺も思いとどまるほかない。あの手この手でなんとか期限を明確に区切ったのが明日だった。一ヶ月の禁欲は辛い。籍を入れてからこちら、禁欲の直前が最も性的に充実していたせいもあるだろうが、俺が妻を思って密かに一人で抜いた回数は、この一ヶ月で両手では足りなくなっていた。妻の名を呼びながら果てる瞬間に、何度思ったか知れない。自慰を禁じられなくて良かった、と。
 とろりと指先を濡らす先走りに、ふと我に返ると、手のひらからはぐちぐちと濡れた音が立ち始め、硬く太く、血管の浮いた陰茎が、さらなる刺激を求めて震えていた。本来ならば、この太い楔(くさび)で妻を貫き、よがらせ、理性を奪って、本能のまま果てたいところではあるが、そうもいかない。明日までの我慢だ。今日はまた自分で熱を煽ろう。そう考えた矢先、俺の目に飛び込んできたのは、妻のたおやかな白い指だった。一度目についたそれから、もう視線が離れない。早鐘を打つような心臓の音が、耳の奥で響いていた。きっと大丈夫だ、妻はよく眠っている。恐る恐る、先走りに濡れた手を伸ばした。血潮のめぐる音が耳の奥で聞こえる。柔らかい指に触れる。人形のように意思のない妻の手は重く、けれど作り物ではありえない温もりに満ちていた。
「…お許しください…っ、主…っ。」
 許しを乞いたいと思った途端、口をついて出てきたのはそんな言葉だった。刀時分にも、こうした背徳行為を行ったことがあったのだったか、どうだったか。記憶を手繰ろうとしたのもつかの間、緩く開いた妻の手のひらに陰茎を握らせた瞬間に、すべての物事はどうでもよくなってしまった。妻の手を包むようにその上から自分の手で押さえて腰を揺らす。ゆっくりと前後に。時折、円を描くように。はっ、はっ、と短い呼吸が聞えていた。思い返せば自分の呼吸だったのだろうが、その時の俺に考える余裕などなく、ただ妻の手の気持ち良さに腰をくねらせていた。
「――っ、あるじっ、俺の――っ…っ!」
 妻の名と、主とを交互に口にして、高まる快楽に酩酊した状態だった。遠慮していたことも忘れて妻の手で竿を扱き、雁首を引き絞らせて喘ぎ声をあげる。
「っは…っ、きもち、い…っ、――っ、すきだ…っ、――っ、――…っっ、っく…っぅ。」
 何度も妻の名前を呼びながら、妻の手へ強く腰を押し付けて先端を握らせ、腰を震わせる。背骨から流れるように快感が駆け抜け、妻の手のひらにどろりとした精液が吐き出された。強く手を握っていたにも関わらず、収まりきらなかった一部が、指の隙間から漏れてベッドのシーツを汚してしまう。
「あっ…っ、しまっ、」
「…国重さん…。」
「!」
 目を上げると、なんとも言いようのない表情で、妻がこちらを見つめていた。僅かに妻の手に力が入り、萎えた陰茎がふにっと柔らかく握られる。
「っ、…っ!」
 ぎょっとした俺の手を振りほどき、精液に汚れた手で妻が竿の先端をくるりと撫でた。こぼれた白濁がとろりと垂れたのに気付いて、妻は身を起こすと枕元のティッシュを引き抜いて俺の竿と自分の手を丁寧に拭う。
「明日までなのに、どうして我慢できないの…?」
「いや、これは…、」
「そんなに、したかった…?」
「っ!!!!!」
 ぺろりと、先端を妻の舌が舐める。ぎょっとした次の瞬間には、亀頭が口に含まれていた。
「っあ! っ待て、今は…っ!」
「んぅ…っひっふぁふぁはひへ、ふぁんふぃひゃふ?」
「だからっ! 頼むからそのまま喋るな…っ!!!」
 もごもごと口の中で竿を揉まれ、先端を舐る舌に翻弄されて情けない声が出た。出したばかりで敏感になっている。妻は心得たとばかりに声をあげるのを止め、俺の竿を舐めることに専念し始めた。くぽ、くぷ、音を立てて妻にしゃぶられ、膨らんで硬くなる。散々妻の温かい口に舐められたせいで、また射精したくて堪らなくなった。
「ぷはっ、…国重さんの、えっち。」
 つん、と妻の指先が俺の雄をつつく。やめろと言いたいが反論の言葉は出ない。みっともなく硬くなってしまった竿は、どうすればいいのだろう。収まるまで待てと言われるのか、また自分で出すしかないのか。妻の顔を見られず俯いていると、さらりと布の擦れる音がした。
「…国重さんがあんまりえっちだから、…私も、したくなってきちゃった…。」
「…おい。」
「約束、1日前倒しにしよっか。…ねぇ、国重さん…?」
 パジャマのズボンと下着とを、俺と同じように脚の途中までずらして、妻が恥ずかしそうに俺の名前を呼んでいた。さっきまでは大胆に俺をしゃぶっていたくせに。淫乱なのか、貞淑なのか、どっちなのだ。
「…いいのか?」
「…早くしないと、気が変わっちゃうよ?」
「…っ、それはだめだ!」
「わっ!?」
 がばりと妻に圧し掛かると、脚に絡まった布を取り去り、大きく股を開いて陰部に指を這わせた。
「っあぁんっ!」
「なんだ、とろとろじゃないか。」
「…っ、国重さんが…っ、えっちだから…っんぅっ!」
「お前も十分、えっち、だろう…?」
「あっ、やだやだ…っ、焦らさないで…っ、はやく挿れて…っ!」
「ははっ…、今日はねだるんだな…っ。」
 膣の中へ指を入れる。愛撫もしていないのにそこは十分にほぐれて、指は三本もすんなりと奥へ潜った。仰け反った喉や、パジャマの裾から覗く腹の皮膚が、指の動きに反応してぐにゃりと歪む。感じている。あられもなく。嬌声は甘く、俺の名を繰返し呼んで、求めて。指を曲げて妻の好い所を擦ってやると、分かりやすく愛液が溢れて、俺はようやく気が付いた。妻もまた、禁欲に苦しんでいたのだろう。久しぶりの交わりで、些細な愛撫にも過敏に反応している。なんて愛らしいのだろうと、俺は沸き上がる笑みを抑えられなかった。指を引き抜き、妻の脚を肩に担ぐようにして、性急に腰を合わせる。期待に満ちた妻の視線が、俺の視線と交わり、そして。目一杯奥まで、俺は竿を突き入れた。
「…っあぁ……おく…っっ!!」
「…は…久しぶりだと、本当に、きもち、いいな…っ。」
「っあっ…っ!」
 ずちゅん、と体を揺さぶるように、引いた腰をまた強く押し入れる。
「…っ、こんなに、気持ちいいこと、」
「っひぁ…っ!」
「っ、禁止、するなんて…っ、」
「や、…っくに、しげさ…っ、」
「悪い人、ですね…っ、あるじっ!」
「っぁあぁっ…っ!」
 妻の胎の奥へと雄を叩きつけ、優位を俺に引き戻す。前後不覚に欲へ溺れた妻の目は既に理性を失い、俺が繰り返す激しい律動で体を揺さぶられながらも、恍惚の表情を見せていた。久しぶりに見る妻の女の表情。俺の余裕が、吸い取られてなくなる顔だ。
「は…っ、もう、出すぞ…っ!」
「…っ、だして…っ、くにしげ、さんっ…おく…っ、おくに、ちょうだい…っ!」
「っ、まったく、お前は、おねだりが、上手いな…っ!」
「…っんっ…っ、くにしげさん…っ!」
 誘われるまま、奥に沈み込む。これ以上ないほど体を寄せて、一つになる。妻の最奥で吐き出した熱の感触が失せるまで、そうして俺たちはしっかりと抱き合っていた。
 どれくらい経ったのか、繋がったままで少し眠ったらしい。妻はまだ眠っていた。起こさないように腰を引いて、繋がった場所を離そうと試みる。ずる、と膣に擦れる感触がして、すぐに陰茎は引き抜けたが、同時に妻も目を覚ましてしまった。
「悪い、起こしたな。」
「…国重さん。」
「なんだ。」
「…すき。」
「…。」
「国重さんが、好き。」
「…知って、る、ぞ…?」
「うん。…でも、ごめんなさい。時々、国重さんとのセックス、ちょっと、怖いの。…自分じゃ、なくなっちゃうみたいで。禁止なんて言ってごめんなさい。…あのね、すっごく気持ちよかったよ。」
 …これだから。まったく、俺の妻はずるい。俺は返す言葉をなくして、ただ妻の体を抱き締めた。