とある長谷部の相反感情



 その夜、俺が目を覚ましたのは、おそらく丑三つ時も過ぎた頃だったように思う。眠気に覆われた瞼は重く、そのまま再び夢に落ちようかという意識が、急速に浮上したのは隣の部屋から聞こえた物音のせいだった。薄い襖を隔てた隣は主の私室だ。聞えた音は鈍く何かが振動するようなもので、決して大きくないながら、俺の神経を妙にざわつかせるものだった。
(主が起きているのか…?)
 俺は音を立てないよう注意しながら、そっと仕切りの襖に隙間を作った。
 部屋の中は暗い。行燈の火などとうに消され、初夏とはいえ肌寒い未明の空気がひんやりと室内を満たしている。けれど人ではない俺の目に、それはくっきりと鮮明に映った。
 数刻前に俺が敷いた布団が、部屋の隅に寄せられている。空いた床に何やら薄い布を敷いて、その上に主が仰臥していた。立てた膝が大きく開かれ、乱れた夜着から白い脚が覗いている。ぴくりぴくりとその膝が揺れて、主が身悶えるたびにさらさらと布の擦れる音がした。その音に、主の浅い吐息が重なった。
 ごくりと唾を飲み込む音が、主に聞えてしまうのではないかと思った。瞬きを忘れて、俺はその異様な光景に見入っていた。肌蹴た肩口に白く浮かびあがるような肌。主は、片手を脚の間に伸ばし、もう一方の手で剥き出しの乳房を揉んでいた。堪えようもなく、俺の腰が疼き始める。と、主の体が傍目にも強張り、少しして今度は逆に弛緩した。
(……達した、のか……?)
 脚の間で妖しく揺れていた腕が、ゆっくりと縮められる。同時に、低く唸る振動音が鮮やかに俺の耳へ届いた。
(……っ!)
 主の手に握られていたのは、男根を模した張型だった。てらりと光るそれは、いくつかの節に分かれるような、見たこともない形をしていて、どうやら本当に振動しているらしい。主が何か操作をしたのか、それはすぐに音を立てなくなった。気だるげに、主が立てていた膝を倒す。寝返りを打つように、それまで向こうを向いていた主の顔が、ころりとこちらに向けられた。身を翻す間もなく、主と目が合った。
「……」
 どれだけの間だったのか、俺も主も言葉を発せず、かといって視線も逸らせず、ただ無言で見つめ合う。先に動いたのは、主の方だった。ゆっくりと、主が体を起こす。夜着は乱れに乱れて、ほとんど片肌脱ぎの状態である。太股まで露わな姿でこちらを向いた主に気圧され、俺はわずかに後ずさった。その分、主がこちらへにじり寄る。かかとに布団の端があたり、体勢を崩して俺は尻餅をついてしまった。その間にも、主はずるずると畳を這うように襖へ近づき、すうっと襖の隙間を広げた。
「……長谷部」
「……」
「いつから、見ていたの……?」
 かすれた声で主が問う。俺はふるふると首を横に振るばかりで、答えることが出来なかった。目の前で惜しげもなく晒された主の肌に、思考が追いつかない。いつもは綺麗に結われている髪が、肩口から乳房にかかり、夢のように美しかった。まさかこれは夢なのかと思った傍から、いや違うと叫ぶように頭が否定する。口から飛び出そうなほど激しく打つ心の臓と、みっともなく熱を帯びる股間の雄が、痛いほどに現実だと知らせてくるからだ。
 俺が混乱の極みにいるのを分かっているのかいないのか、主はそのまま俺の間近までにじり寄ると、冷えた手で俺の脛をそっと撫でた。妖しく、艶めかしく、俺を伺う主からは女の匂いがする。
「……私のこと、嫌いになった……?」
 驚いて、俺は慌てて首を横に振る。勢いよく振りすぎて、ばさばさと髪が乱れた。
「でも、いやらしいと、思ったでしょ?」
 ぐしゃりと顔を歪めて、主が言った。
「本当はね、長谷部が誉の褒美に私の隣の部屋へ移りたいって言ってきたとき、もうやめようと思ったの。だって絶対に気付かれるから。……なのに、どうしてもやめられなくて。あなたが眠った後に、毎晩、こんな……」
 自嘲の笑みが、泣きそうなそれに変わった。俺は更に慌てて、主に向きなおった。
「た、確かに、その……、俺も、男ですので! 目は奪われましたが……っ!」
 いやらしいなどとは、まったく。絞り出すように俺が言うと、主は本当に?と問いかけるように俺の顔を伺ってきた。近い。近すぎるのではないか。そう思った時には、柔らかい肌に抱き締められていた。
「あ、あるじ……!」
「……ごめんなさい」
「……あ、の……?」
「もし、長谷部がいいのなら」
――私を、慰めてくれないかな?


   *** ***


「ん…、ふ…、ぅ…ん」
 ぴちゃぴちゃと唾液の絡む音がする。既に俺も主も一糸まとわぬ姿で、主の部屋の、畳に敷かれた大きなバスタオルの上にいた。布団の上ではきっと汚れるからと、主の私室に誘われた俺は、先ほどまで主が横たわっていたその布に、濡れた跡を見つけて体を硬くした。これから行おうとしていることが、あまりにも現実から離れすぎていて眩暈がする。そんな俺の帯を解き、自分も夜着を脱ぎ捨てた主が、今は俺の脚の上に座っている。座して抱き合い、貪るように唇を合わる俺は、自分でも笑えるくらいに必死だった。甘いような香りが、主の肌から匂って、酩酊感で思考が霞む。
「……ぁ……、あ、るじ……っ」
 先ほどから、俺の雄を主はずっと撫でている。その手の中で、遠慮も知らず硬くなる自分が恥ずかしい。時折主はそれを見下ろし、はぁ、と艶めかしく熱い吐息を吐いた。
「長谷部の、大きいね」
「っ!」
「こんなの入れたら、壊れちゃうかも……」
 そう言いながらも、主の口調はどことなくうっとりとしている。けれど、俺はまた生唾を飲むことに必死で、そんなことはどうでもよかった。入れるのか。これを。主の中に? まさか!
「ん…長谷部、そろそろ」
 触って、と甘えた声で言われ、俺は興奮を隠せないまま、主の体をまさぐった。肩、腕、手のひら、胸の膨らみ、肋骨の上の薄い皮膚、腹、尻、太股、膝、脛、爪先。どこもかしこも柔らかい。触って、揉んで、舐めて、摘まんで。思いつく限りの優しい刺激を主に与える。肌は熱く、主の抑えた吐息と、時折混ざる嬌声は甘い。そして主も、遠慮なく俺の肌に触れてきた。硬くなった雄を、口に含まれたときはぎょっとしたが、それは抗いようもない快感を俺に教えただけだった。気持ちよさだけが、体中に広がっていく。もう恥と理性はどこにもなかった。お互いが肌に浮いた汗を舐めとり、お互いの性器を舐めあい、その後で口付けることにも躊躇いを感じないほどに。俺たちは、ただ肉欲に溺れたのだ。
「長谷部、挿れて……っ」
 だから主にそう言われた時も、もう迷いはなかった。それよりも、早くそうしたいと願ってさえいたのだ。俺は性急に主を組み敷き、舌と指で解したその場所へ、自分の熱を宛がった。さして力を入れなくても、主は簡単に俺を受け入れてくださった。とぷりと雄の先端が潜った時には、言葉にならない音を発しながら、主が仰け反り白い喉が露わになった。気持ちよさと、愛おしさで胸が満たされる。腹のあたりが熱くなって、先端が奥へ届くのと同時に、俺はぶるりと腰を震わせた。
 早々に達した俺を、主は笑わなかった。繋がったまま、息を荒げる俺を抱き締め、俺の熱が蘇るのを静かに待ってくださった。再び俺に熱が戻り、抽挿を繰り返せるようになると、何度もきもちいいという声が聞こえた。繰返し俺の名前を呼ぶ主の声。甘い声で名を呼ばれ、奥を突くごとに艶めいた喘ぎ声を聞かされて、徐々に俺の動きが激しくなる。衝動を抑えることもなく、荒々しく腰を振るう俺の下で、主は何度も達したようだった。
 幾度目かに俺が精を吐いたとき、主が掠れた声で、もうむり、と音をあげた。
「……長谷部、元気だね……」
「す、すみません」
「まだ、出したい?」
「……はい」
「あはは、ごめんね、最後まで相手できなくて」
 肌を重ねて俺も口が軽くなったらしい。素直に不足を告げると、主は心底おかしそうに笑って、俺に首に腕を回した。ぎゅっと俺を抱き締めてから体を離すと、俺の雄に手を伸ばした。
「主……っ!」
「……ナカで出されるのは、もう辛いんだけど、手なら貸してあげれるから。……気が済むまで、出していいよ」
「……んっ、あるじ……っ、それ、だめです……っ」
「だめじゃないよ。……ね、きもちいい?」
「っ、ある、じ……っ!」
 答える前に、主の手淫に耐えられなくなった。びゅっと飛び出した白い体液が、主の肌にかかってしまう。さらに絞り出すように、敏感になった竿と先端を擦られて情けない声が出た。
「ひ……、やめてください……!」
「……長谷部のその顔、私好きだな。……かわいい」
「!?!?」
 ちゅ、と主の唇が先端に触れる。あっと思った時には、主の口が俺を咥えていた。先ほどから何度も繰り返した行為ながら、達した直後には刺激が強すぎる。仰け反った俺は、体を支えていた手が滑り、ずるりと後ろに倒れ込んでしまった。寝そべった俺の股間に顔を埋めて、主がぴちゃぴちゃと音を立てて雄をしゃぶる。と、その時ありえない感覚が俺の体を襲った。
「主っ!?」
 悲鳴に似た声の大きさに、自分で驚いて口を押さえる羽目になった。まだ雄をしゃぶったままの主が上目遣いで睨んでくる。誰かに聞かれたらどうするのかと、責めるような目をしていながら、主は『それ』を止めようとしなかった。
 床と尻の隙間に、主の手があった。それは雄をしゃぶる間に、あやすように俺の尻を何度も撫でていたのだが、つとその指が、尻の割れ目をなぞり始めたのだ。菊座のあたりを執拗に撫でられ、これまで感じたことのない感覚が背筋を這い上る。それは不快の一言に尽きた。嫌だと体を捩ろうにも、男根を咥えられたままでは、あまり暴れると噛みつかれる恐れがある。しかし、結局は暴れたほうが良かったと後悔することになった。
 決定的な抵抗が出来ないままに尻穴を弄られていると、あろうことか主はその場所に潤滑液まで塗り込み始めたのだった。ひやりとした感触に玉まで縮む有様だった。衝動的に主の口の中に射精した俺はそれに対して慌てる暇もなく、精を飲み込んだ主が、それでもなお菊座を撫で続けていることにぞっとした。
「あるじ…っ、いやです……っ!」
「大丈夫だよ、長谷部」
「俺は大丈夫じゃありません……! そこは排泄をするもので……っ」
「こっちだって、同じようなものでしょう?」
 そっと俺の雄を撫でて、主が首を傾げた。
「こちらは生殖を行うものですが、尻は完全に汚物を出す専門ですよ……!?」
「うん、だからね、抜くとき――出す時が、気持ちいいんだよ」
 大丈夫、お尻用のおもちゃもあるから、と。何が大丈夫なのか分からないが、主が決して俺の尻を諦めていないということに愕然とした。どうしてこうなった。
「あ、あるじが気持ちいいと仰るなら、俺がして差し上げますよ!」
「本当? じゃあ、今日はもう疲れてるから、また次にお願い。今日は長谷部が頑張ろうね?」
「あるじ……!!」
 全く理解してもらえていない。俺は前だけで十分です、と。切々と語ってみたが、主はどうにも納得してくださらなかった。
「お尻は男女平等にあるでしょう? これなら長谷部にも、気持ちいいのが分かってもらえると思うし、男の人でも、とっても気持ちよくなるらしいの」
 それが、試したいということですか……!
 慄く俺に、あくまで主は優しく尻の穴を撫でてくる。
「急かしたりしないから、ゆっくり慣らしていきましょう。だってこれから毎晩、長谷部が相手をしてくれるんでしょう?」
 にっこりと笑った主が、顔にかかった髪をかき上げた。隠れていた乳房やくびれた腰が眼前に晒され、思わず俺の喉が鳴る。抗いがたい誘惑だ。たとえ尻の危機があるのだとしても。毎晩。主と。
「ね、長谷部。楽しみね」