夜を越えて



 この冬初めての雪が振った。あと一週間くらいで年が変わるのだから、おかしいことは何もない。改札を出てすぐの軒先から、ちらちらと白いものが落ちてくる。まるで花びらのよう。そう思ったら、脳裏に彼の顔が浮かんだ。
 駅前は綺麗なイルミネーションに飾られて、どこからか鈴の鳴る音がする。帰宅途中の人々を誘うように、特設のテントでケーキが売られていた。メリークリスマス! ケーキはいかがですかー。白い吐息に明るい声が伸びる。何人かのおじさんが足を止めて、ホールケーキの箱を指さしていた。家族と一緒に食べるのだろうか。マフラーに首を埋めて、逃げるようにそこから離れた。積もることのない雪は優しく髪に触れて溶けていく。寒い。長谷部くんに会いたい。
 私がこの街に来てから、そろそろ二ヶ月が経とうとしていた。もう随分長谷部くんに会っていない。転勤しても仕事の量はいままでと同じようなもので、私は相変わらず寝るためだけにマンションへ帰っている。携帯電話では時々長谷部くんからの着信ランプが光っていたけど、さすがに日付が変わってから折り返すのは気が引けた。メールやLINEで一言二言、疲れているときはスタンプだけを送って返す。そっけない反応しか返せなくてごめんねと、謝ることもできない毎日だった。長谷部くんも、私が転勤してからやたらとバイトを詰め込んだらしい。珍しく電話がつながった時に、あなたがいなくて寂しいんですと言った声が恋しかった。
 彼の顔を見ることも、声を聞くことも減ってしまって、私は時々ひっそりと泣いた。寒くて暗い部屋の中で、長谷部くんの声や体温を思いだしながら一人で眠るのは悲しかった。それでもなんとかやっていけたのは、いつか長谷部くんが、私をお嫁さんにしてくれるという約束があったからだった。ただの口約束。私のわがままに長谷部くんが頷いてくれただけの。だけどそれが、いまの私にとっては唯一の支えだった。
 駅からバスで十分ほどの自宅は、余所余所しく私を出迎えてくれた。珍しく早く帰ってみても、冷蔵庫の中身はからっぽだ。お湯を沸かして、黙々とスープパスタを飲みこむ。長谷部くんが知ったらきっと怒るだろう。コンビニで買ったチキンを頬張って、申し訳程度にイエス・キリストを祝った。クリスマス。去年は長谷部くんと一緒だった。まだ付き合いたてで初々しい私たちが、初めて夜をともにしたのがその時だった。私も長谷部くんもお互いに初めてで、手探りのたどたどしいセックスはもどかしくも幸せだった。今年はプレゼントを宅急便で送った。クリスマスイブの昨日、届きました、と長谷部くんからメッセージが来ていた。土日も仕事なんですね、体を壊さないようにしてください。俺の送り物は明日届くようにしました。楽しみにしていてくださいね。何度も読み返したメッセージは覚えてしまった。送ったのは長谷部くんに似合うだろうと思ったコートだった。袖を通した彼の写真が添付されていたから、すぐにそれを待ち受けにした。
 ごろん、と炬燵に寝転がって、去年長谷部くんにもらったマフラーを引っ張り出す。不思議な紫のグラデーション。ふわふわとした動物の毛で織られたそれを首に巻いて目を閉じた。長谷部くんに抱き締められている気がした。
 ふと目を覚ますと、携帯電話が唸っていた。着信。慌てて手を伸ばすと、案の定長谷部くんからだった。
「も、もしもしっ!?」
『主? ああ、良かった。繋がった。今日はたしか早く帰るって言ってましたよね? もうおうちですか?』
「うん。クリスマスだから早く終わろうって。……あの、長谷部くん、メリークリスマス」
『はい、メリークリスマス。明日は振り替え休日でしょう? 主も、今夜はゆっくり休めますね』
「うん……」
 長谷部くんだ。長谷部くんの声だ。どこにいるのか、後ろから車の走る音が聞こえる。バイト帰りだろうか。
『主は、いつからいつまでお休みでしたっけ』
「年末年始の? 28まで仕事で、29からがお休みの予定。年明けは4日から仕事だったかな。長谷部くんは?」
『俺は今日から休みです。というか、バイトを今日辞めてきたので。これからしばらく、ゆっくりできますよ』
「えっ、辞めたの?」
『はい。そのために今までほとんど毎日働いてましたけど。どうして辞めたのか、気になりますか?』
「そりゃ気になるよ。まだ卒業までは三カ月くらいあるでしょ? その間どうするの?」
『大学で日払いのバイトがいくつか紹介されているんです。それに申し込んでみようと思って。シフト制だとなかなかまとまって休めませんから』
「うん?」
『卒業したら、旅行なんて滅多にできないと思いませんか? 日帰りとか一泊くらいならともかく』
「旅行に行くの?」
『ええ』
「あ、卒業旅行とか?」
『似たようなものです』
 長谷部くんがふふっと笑うのと、部屋のインターホンが鳴るのが同時だった。1階ホールのオートロック。長谷部くんにも聞こえたのだろう。のんびりとした声が聞こえた。
『俺の贈り物が届いたかな』
「ごめん、ちょっと待ってて」
『はい』
 私は通話状態のまま電話を置いて、代わりにインターホンの受話器を取った。ざらざらと荒い音の向こうで、宅急便です、という声がした。
「はーい、お願いします」
 オートロックの開錠ボタンを押して、受話器を下ろす。印鑑を掴んで散らかった土間の靴を少し整理する間に、今度は玄関前のインターホンが鳴った。
「はいはい」
 靴の先をつっかけて鍵を開ける。さらにロックを外して、ドアを開いた。いつもなら、ドアの向こうには制服を着たおじさんがいる。一歩離れたところに立って、私の印鑑を待っているはずのおじさんは、今日はどこにも居なかった。代わりに立っていたのは、背の高い男の人だった。煤色の髪。凛々しい眉。切れ長の瞳。ずっと会いたかった人だった。
「ははっ、メリークリスマス」
 満面の笑みで長谷部くんが立っていた。
「お久しぶりです、主」
「なん、で?」
「今日から休みだって言いませんでした?」
「え、えぇ?」
「旅行に行くとも言いましたよね」
「うえぇ!」
「部屋、上がってもいいですか?」
 答える言葉が思いつかない。やっとの思いで体を寄せて、長谷部くんが玄関に入れるようにした。長谷部くんは笑って中に踏みこむと、ドアが閉まるのを待たずに素早く屈んで私に口付けた。
「んっ」
「これ。お土産です。どうぞ」
「……あり、がとう」
 渡されたケーキの箱を抱えて、私は呆気にとられていた。


   *** ***


「びっくりした。ほんとにびっくりした」
「すみません、いきなり来てしまって」
 私が淹れたお茶に手を伸ばしながら、長谷部くんは迷惑じゃありませんでしたか、と言った。嬉しいよ。答えた私に、彼はほっとした表情でお茶を啜った。彼が脱いだコートは壁に掛けられている。私が贈ったコートだ。手伝うという長谷部くんを炬燵に座らせて、彼が買ってきてくれたケーキをお皿に移しかえる。長谷部くんの前にお皿を置くと、彼は私が座るのを待って手を合わせた。いただきます。白いクリーム。いちごの赤。長谷部くんは、ふたりで何度も行ったお店のケーキを、わざわざ何時間もかけて持って来てくれたのだった。これは私が一番好きなケーキだ。嬉しい。
「昨日コートが届いて、久しぶりにメッセージのやりとりができたでしょう? あれでもう、急に会いたくなったんです。本当は、明日こっちにくる予定だったんですけど」
「明日? それも聞いてないんだけど」
「言ってませんでしたからね」
「どうして」
「あなたの驚いた顔が見たかったんですよ」
「……それ、ひどくない?」
「ええ。俺のわがままです」
 膨れた私の頬を人差し指でつついて、長谷部くんはまた朗らかに笑った。髪の毛が少し短くなっている。就職活動はもう終わってるから、バイトのために切ったのだろうか。思わずその頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細められた。
「ちょっと短くなってるね」
「分かりますか。主は、結構伸びましたね」
「うん」
「仕事、疲れていませんか?」
「ん、大丈夫」
「ほんとうに? 昔から、あなたは休むことを知らないから」
「……長谷部くんには言われたくないなぁ」
 長谷部くんのいう『昔』が、ここ近年のことでないのは口ぶりから分かった。でもあの頃は、長谷部くんの方がワーカーホリックだった気がする。私の言葉に長谷部くんが苦笑した。私よりよほど早くケーキを食べ終わった彼は、お茶のカップを天板に置いてくわっと大きなあくびをした。
「ふぁ。……ああ、すみません。あなたの顔を見たら、ちょっと気が抜けました」
「ええ?」
「これでも、結構緊張していたので」
「うん?」
「あなたが家にいなかったらどうしよう、って」
「それは連絡をしない長谷部くんが悪いんじゃ?」
「もし他に男ができていて、今夜そいつと過ごすつもりだったらどうしようっていうのも考えてましたよ」
 長谷部くんが口にした言葉に、私は返事ができなかった。呆れてしまったのだ。ありえないよ。長谷部くんのほうが女の子に放っておかれないくせに、まさかそんな心配をしていたなんて。不安だったのは私のほう。長谷部くんの隣に、いつかもっとずっと可愛い子が現れて、私なんていらないと言われてしまうんじゃないか、って。あの頃のように、切っても切れない繋がりを、今の私たちは持っていないのだ。離れてから更に大きく膨らんだその不安が、私の心をずっと塞いでいたのに。長谷部くんも同じことを思っていたなんて。
「うわっ」
 腕を伸ばして長谷部くんの頭をわしゃわしゃ掻き回すと、びっくりしたような目が私を見てぱちくりと瞬いた。私はめちゃくちゃに長谷部くんの頭を撫でまわして言った。
「ばか」
「主」
「私が長谷部くんから離れるなんて、逆はあっても絶対ないよ」
「俺だってあなたから離れたりしませんよ」
「うん」
「……あの、いい加減止めてもらっても?」
「やだ」
「主」
「ふふっ。長谷部くん、犬みたい」
「〜〜主っ!」
「あはは」
「……もう。こんなことを俺にするのは、あなたくらいのものですよ」
 長谷部くんは諦めたように息を吐いて、私が飽きるまでそのまま大人しくしていてくれた。私は嬉しくてもっと長谷部くんの頭を撫でまわす。長谷部くんの少し硬い髪をぐしゃぐしゃにできるのが私だけなのだとしたら、それはとても気分のいいことだった。
「ん……」
「? 長谷部くん?」
「すみま、せん。あなたの手、すごく気持ちよくて……」
 うっすら閉じかけた瞼を、長谷部くんが無理に押し開く。
「眠いの?」
「ええ、ちょっと、昨日の夜から寝てなくて。朝のバイト明けから、ずっと動いていた疲れが出てきたみたいです」
「ええっ、それ駄目なやつじゃない!?」
「あなたに、早く会いたくて……」
 もう完全に目を閉じて、長谷部くんはすり、と私の手に頬擦りをした。う、可愛い。
「は、長谷部くん、こんなことろで寝たら風邪ひくよ」
「ん……、そう、ですね。そろそろ、ホテル探さないと。無計画に出てきたせいで、まだ泊まるところを決めてないんです」
「えっ、うちに泊まるんじゃないの?」
「えっ」
 お互いにえっ、と声をあげてしまう。今度はぱっちりと目を開いた長谷部くんが、じわりと目元を赤らめた。
「……あの、いいんですか?」
「う、うん? 最初からそのつもりだったかと思ってたけど違うの?」
「……いえ、その、期待してなかったかっていうと、期待、してました……」
「狭いのは我慢してね」
「っ全然、気にしませんっ!」
 ぶんぶんと首を横に振る長谷部くんは少し眠気が取れたみたいにも見える。でも寝てないなら早く休んだほうがいい。
「お風呂入ってきて、もう休んだら?」
「いえ、主が先に入ってください」
「こういうのはお客さんが先だよ。寝る場所、用意しておくから」
「……すみません」
「こういう時はありがとうって言うんだよ、長谷部くん」
 荷物から着替えを出す長谷部くんに、お風呂の使い方をざっと説明して、バスタオルを渡した。その間に寝床の準備だ。ベッドは一つしかないし、一緒に寝るしかないんだけど、ふたりで寝るつもりなんてなかったからめちゃくちゃ狭い気がする。でも長谷部くんを炬燵で寝かせるわけにもいかない。
「……しょうがない、よね」
 自分に言い聞かせて、予備のバスタオルを何枚か重ねて長谷部くんのための枕を作った。それを自分の枕の横に置く。……恥ずかしいけど、仕方がないのだ。そうこうしている間に長谷部くんはお風呂からあがってきた。ほかほかと湯気を立てた彼は、部屋に入るなり固まってしまった。たぶんベッドを見たのだろう。
「狭いのは我慢できるよね?」
「いえ、それは良いんですが、良い、良いんです、けど……」
「いいなら、寝る! はい、おやすみ!」
「えっ!? あ、主は? 主は休まないんですか?」
「私はまだこっちの片付けとか、色々……」
 ケーキを食い荒らした後の炬燵を指さしながら言うと、長谷部くんはぶんぶんと首を横に振った。
「だめです、主が休まないなら俺もまだ起きてます」
「ええっ」
「明日も休みなんですから、片付けは明日でもいいでしょう? 俺も手伝いますから。ほら、主も風呂に入ってきてください。湯船、勝手にお湯張りましたから、冷めないうちに早く」
「ええ……」
 ほらほらと背中を押されて、仕方なく私もお風呂に入ることにした。なんだろう、強引だな。あれかな。一緒に寝たいってやつかな。……それともえっちなほうかな。でも長谷部くんはめちゃくちゃ眠そうだったから、そういうことはしないで寝たほうがいいだろう。もし迫られても断らなければ。悶々としながらお風呂に入り、部屋に戻った私は、ベッドの端に腰かけて船を漕いでいる長谷部くんを見て苦笑した。これは朝までぐっすりタイプだ。
「長谷部くん」
 声をかけると、びくりと体を震わせて、長谷部くんが瞼を擦った。
「待ってなくて良かったのに」
「俺が先に寝たら、主の寝る場所がなくなるかもしれないでしょう?」
「そうかな?」
「ええ。……どうぞ。主が壁際ですよ」
「うん」
「俺が邪魔だったら、突き飛ばしてもらっても構いませんからね」
「そんなことしないよ」
「そうですか?」
「うん。お布団、ちゃんと着れてる?」
「はい、大丈夫です。主は?」
「大丈夫。ふふ、長谷部くんと一緒だと、いつもよりあったかい気がする」
「そう、ですか……? それは、よかっ、た……」
 横になるなり、長谷部くんはうとうとと瞼を落とし始める。よっぽど疲れていたのだろう。
「おやすみなさい、長谷部くん」
 長谷部くんの返事は、とても静かな寝息だった。


   *** ***


 温かい。今朝はやけに布団が温かいな。目を瞑ったまま、ころりと寝返りを打とうとして、なにかに腕をぶつけてしまう。これは何だろう。ぐいっと押してみても、その何かは少し揺れただけで動かなかった。うん?
「……」
 目を開けた瞬間、昨日の記憶が一気に蘇ってきた。長谷部くんだ。そうだ、長谷部くんが来たのだ。徹夜の彼をさっさと休ませるために、私も一緒に布団に入って、そのまま寝てしまったのだった。ああ、テーブルの上はきっとめちゃくちゃに散らかっていることだろう。乾いたケーキのお皿は、浸け置きしてから洗わないといけないな。そんなことを思いながら、私は長谷部くんをとっくりと眺めた。こんなに至近距離で長谷部くんを観察できることなんて滅多にないのだ。疲れているのだろうか、私に体を押されたのに、長谷部くんはちっとも気付かず眠ったままだ。すっと通った鼻筋や、凛々しくて形の良い眉が目の前にある。薄く開いた唇から、微かに吐息が漏れていた。目を閉じていると、長谷部くんは普段よりずっとずっと幼く見えて可愛かった。同じ布団で横になりながら、こんなに穏やかな長谷部くんを見れる日が来るなんて。今までは同じ布団に寝ると言ったら、つまりそういうことをする時だったし、そういうことをした後は私の方が疲れ切ってしまうから、朝がきても先に目覚めるのはいつも長谷部くんの方だった。
(こんな風に寝てるんだ……。いつもは強引で、すけべで、もっと意地悪なのに、可愛いなんてずるいな……)
 普段の長谷部くんは年下らしく感情の起伏も豊かで可愛らしいところが沢山ある。でもやっぱり、恋人らしいことをする時は完全に私が打ち負かされてしまうのだ。そうだ、以前も私が嫌がるのに、無理矢理――。
「っ」
 つくん、とお腹の奥が疼いた。思いだした情事は二ヶ月以上前のものだ。最近はずっと会えていなかったから、当然そういうことともご無沙汰である。自分はそれほど性欲が強い方だとは思っていなかったけれど、こっちに引っ越してきてから、実は何度か一人でしてしまったことがあった。どうしても寂しい夜に、長谷部くんの声が入った留守電を聞きながら自分で自分の柔らかいところを弄ってしまった。初めての自慰は罪悪感しかなくて、どうしようもなく落ち込んだけれど、体は素直に快感を覚えてその夜はいつもよりぐっすりと眠れてしまったのだ。それ以来、何度か一人でそういうことをするようになった。といっても、ほんの少し。服の上から気持ちのいいところを撫でて、軽く快感を拾うだけだけど。これまで長谷部くんと少なくても月に2回は触れ合っていたことを考えると、物足りなさは否めない。
(……どうしよう、欲求不満、なんだろうなぁ)
 目の前にいる長谷部くんに、落ち着かない気持ちが膨らんでいく。お腹の奥、膣のずっと奥のほうが、長谷部くんに触れて欲しくて疼いていた。触って欲しいなんて、自分から言えるわけもないのに。
(……ちょっと、だけ)
 そろりと手を動かす。パジャマの上から、自分で自分の恥丘に触れると、ぞわりと甘い快感が腰に広がった。
「ん……」
 手を少し下げて、膣の入り口を弱々しく撫でる。温かく熱を持った体の中心が、ぞわり、ぞわりと温度を高めていくのが分かる。
(……うう…、きもち、いい……)
 もしも長谷部くんが触れてくれるなら、どんな風に触ってくれるだろう。もっと強く? もっと優しく? 想像の許す限り、色んな長谷部くんを思い浮かべる。少し強引に強くされるのも、甘やかに弱く弄られるのも、どちらもきっと、すごく気持ちがいいのだろう。
(ん…っ、だ、め……)
 ほんの少し、強めに淫核を擦るだけで、びくんっと腰が震えてしまった。体温がどんどん上がって、もう暑いくらい。興奮した呼吸が浅く速く、抑えられないほどに昂ぶっていく。眠る長谷部くんの涼しい顔を見ていると、罪悪感しか湧いてこない。けれど、こんな中途半端で止めるのはとてもじゃないけど無理だった。
(ごめん、長谷部くん……っ)
 ずるっと体の位置をずらして、長谷部くんに背を向ける。横向きになった体があまり動かないように注意しながら、足の付け根を揉む手に力を込めた。
「ふ…っ」
 枕に顔を埋めて声を殺す。さっきよりずっと強い快感がお腹を痺れさせ、勝手に腰が動いてしまう。自分から指に気持ちのいいところを擦りつけて、お尻がゆらゆら揺れてしまった。
(あっ、もぅ、だめ……っ、長谷部くん…っ、長谷部く……っ)
「んぅ……っ!」
 びくんと体を強張らせて、鋭い絶頂を迎えた私は一気に肩の力を抜いた。やってしまった。しかも、ひとりでしたのに、すごく気持ちよかった。今までで一番気持ちよくて、頭まで痺れたみたいになって、それで。
「っ!!」
 そろ、と太腿に熱い手が触れた。パジャマ越しでも分かる体温は、私に気持ち悪い冷汗をかかせるのに十分な熱さだった。
「……主」
「っ!」
「おはようございます」
「お、おは……」
「いま、何をしていたんです?」
「っ!!」
 そろりと太腿を撫でた手が、まだ足の間に挟まったままの私の手に触れる。言い訳のできない場所にあった私の手の甲を、長谷部くんはそろそろと優しく撫でていった。慌てて手を引いたけど、長谷部くんの手も一緒にくっついてきてしまう。
「この手で、何をしていたのか、俺に教えてくれますか?」
「ご、ごめんなさ……っ」
「あるじ」
 ふっと、うなじに吐息がかかる。長谷部くんの体が背中に密着して、ほとんど抱えられているような格好だ。そして私の手を撫でていた手のひらは今、私のお腹を優しく擦っている。
「謝ってほしいわけではありません。何をしていたのか、教えて欲しいだけですよ」
「っ」
「ん、教えて、くれないんですか?」
 耳の裏で囁かれてぞくぞくする。長谷部くんの甘い声は卑怯だ。どうしてこういう時だけ、声のトーンを変えてくるのだろう。
「俺には言えないようなことを、していたんですか?」
「ひぅっ」
 パジャマの上からお腹を撫でられていたはずが、長谷部くんの手はあっという間にシャツの裾を捲って、直接おへそのあたりを撫で始めた。ズボンのふちを指でなぞって、いつでもそこへ手を差し込めるのだというように、時々私のお腹を柔らかく押えたりしている。
「教えてもらえないなら、想像するしかありませんね」
「あっ」
 お腹から手のひらが離れていった。けれど安心したのも束の間で、その手は再びパジャマの上から私の敏感な股間に触れる。
「んっ!」
「さっき、こんなことをしていませんでしたか?」
 緩くその場所を揉まれて、一度達した体は簡単に甘い刺激を喜んでしまう。長谷部くんは私の耳の裏や、首筋の匂いをすんすんと嗅ぎながら、優しく私の恥丘を揉み続けている。恥ずかしさと気持ちよさでまたカッと体が熱くなった私は、いくらもしないうちにその刺激が物足りなくなってきてしまった。もっと、触って欲しい。思わず好いところが当たるように腰を揺らしてしまって、長谷部くんに笑われてしまった。見透かされている。
「主。いま、自分から?」
「っ!」
「はは、可愛らしい。俺に、触ってほしいんですか?」
「あ…」
「ねぇ、主。もしかして」
 長谷部くんはふっと手を離すと、今度はするっとお腹のほうからズボンに手を突っ込んで、薄い布越しにまたその場所に触れた。さっきより、もっと長谷部くんの指の感触を感じてしまう。
「ああ、ほら。やっぱり、濡れてますね」
「ん…っ!」
「温かくて、湿ってますよ」
「や、やだ…っ」
「ははっ」
 緩い刺激がもどかしい。そんな、下着越しじゃなくて。もっと直接。めちゃくちゃに触って欲しいのに。はぁはぁと呼吸が荒くなる。長谷部くんはあくまで優しくそこに触れるだけで、私が思うような触り方をしてくれない。このままずっと、こうなのだろうか。そこは確かに長谷部くん自身の熱を欲しがって濡れているのに。
「はぁっ、…はせ、べく…っ」
「はい?」
「それ……、ぃや…っ、もっと、ちゃんと触って……」
「…いいんですか? 俺も久しぶりで……しつこくしてしまうかもしれませんよ?」
「いいよ…っ、好きなだけ、していいから…っ」
 はやく欲しい。長谷部くんはごくりと喉を鳴らして、そのまますぐに手の位置を変えた。ほんの少しお腹を遡った指先が、するんと下着の中に潜ってくる。
「あっ…っ」
 思わず声が漏れてしまう。気持ちいい。長谷部くんの、指。十分に濡れた場所を彷徨う指に、脚が震える。
「あっ、あっ、はせ、べ、く…っ」
「主…っ、俺に触られて、嬉しいんですか…っ」
「だ、って……」
 だって早く長谷部くんが欲しいから。そんな直接的なことを言えるはずもなく、シーツを掴んで与えられる刺激に耐えていると、長谷部くんにちゅうっと首へ吸い付かれた。
「んぁっ」
「ああ、すみません。指が、中に…」
「あ…は…っ」
 挿し込まれた指が、中をまさぐる。久しぶりのその感覚に私はもうどろどろになってしまって、もっと奥に欲しくてぎゅっと膣を絞ってしまった。それなのに、長谷部くんは分かっているのかいないのか、その指を簡単に抜いて私のシャツをたくしあげた。
「こっちも、触らせてください」
「ぁんっ」
「まだここ、柔らかいですね」
 乳輪をくるくると撫でる指の下で、皮膚がきゅっと縮んでいく。長谷部くんが一言口にする間に、そこは簡単に尖ってつんと硬く張り詰めた。その尖りを、長谷部くんの指が摘まんで強く引き絞る。
「ひんっ」
「痛かったですか? それとも気持ちいい?」
「き、きもち、い…っ」
「主。今日はどうしたんです? いつもよりずっと感じやすくなってますね」
「っ」
 本当に、どうしてしまったのだろう。長谷部くんが欲しくて、めちゃくちゃに気持ちよくして欲しくて、実際に気が狂いそうなほどに感じすぎてて。離れていたから? 久しぶりだから? それだけでこんな風になってしまうなら、私は長谷部くんから離れられない。長谷部くんの手が、胸の膨らみをふわふわと揉むのも気持ちいい。時々指が乳首に擦れて熱いため息が出る。焦らすように核心を外して胸を揉まれ、もどかしさに内股を擦って身悶えた。長谷部くんはたぶん、そんなことも全部お見通しなのだ。
 下着はすでにびっしょりと濡れていて、脚が触れる布地がわずかに冷たい。漏らしたのかと勘違いするほど濡らしてしまった私は、恥ずかしさで更にそこを潤してしまう。次に長谷部くんがそこに触れたら、あまりの濡れ具合に驚かれるんじゃないかとドキドキした。
 けれど、長谷部くんはそこにもう触れることはなかった。飽きるほど胸を堪能した彼は、私の下着とズボンをまとめて太腿の中ほどまでずり下げたのだ。布団の中とはいえ、いきなりお尻を丸出しにされて私はぶるりと羞恥に震えた。濡れた下着が太腿に触れて気持ち悪い。そのくせ、長谷部くんがお尻を撫でるのには酷く興奮して、また愛液を垂らして欲しがってしまう。
「長谷部く…」
「少し、待っていてください」
 ちゅっと私の頬に口付けた長谷部くんは、ぎしりとベッドを軋ませて布団から抜け出した。ひたひたと床を歩く気配と、鞄を開ける音。何かを探すように鞄を探っていた長谷部くんは、目当てのものを掴んでまたベッドに戻ってきた。箱を開ける音と、小さなビニール音が聞こえた直後、その箱がヘッドボードに投げられた。見なくても何か分かって、期待に体が疼いてしまう。コンドーム。やっと、長谷部くんが中に来てくれる。
「……準備、いいね」
「俺もしたいと、ずっと思っていましたから。……主」
 ひたりと。長谷部くんの熱い塊がお尻に触れる。
「えっ、この、まま?」
「ええ。このまま。いいでしょう?」
 長谷部くんは横向きに横たわる私の背後に、さっきまでと同じようにぴったりとくっついて腰を合わせてくる。ずるっとそれがお尻に擦れて、私は期待と少しの恐怖にシーツを掴み直した。入って、くる…!
「はぁ…っあ…っ!」
「は…っ、どろどろ…っ」
 ぐちゅ、っと濡れた音を立てて、長谷部くんのおちんちんが入ってくる。普段と異なる角度で中を擦られ、ぞくぞく、背中を気持ちいい振動が響いて。
「あっ…は…っ、イク…っ」
「主。早いですよっ」
「だ、って…っ!」
 気持ちいい。気持ちいいのだ。びくん、びくんと下腹部が震えて、さっき一人でしたのとはまた違った快感が駆け抜けていった。長谷部くんはまだ半分も入っていないのに。みっちりと吸い付くような陰茎で入り口をこじ開けられるのが、すき。少し雁首が引っかかって、浅いところを擦るのが、特に。
「あっ、あっ、それ…っ、それ、きもちいい…っ!」
「知ってます。主の良いところは、入り口のここと、」
 ふっと長谷部くんが息を吸って体重をかけてきた。
「ひ、ぅっ…!」
「っ、奥の、ここ、ですよね?」
「う…っ、ん…っ」
 ぐんっと奥を突かれて目の裏に火花が散る。勢いよく突かれたわけでもないのに、こんなに気持ちいいなんて。長谷部くんのおちんちんに、媚薬が仕込まれているみたいだ。そのまま、長谷部くんは入り口ばかりをぐぽぐぽと刺激したり、大きな動きで奥をゆっくりと突いてきたりと、散々に私を喘がせて何度も何度も私はイッてしまっていた。こんなに何回も絶頂を迎えたことは初めてで、途中からどんどん怖くなっていった。なのに、もっともっと感じたい気もする。めちゃくちゃに乱されて、そのまま意識を失ってしまうくらいに。
「はっ、あるじっ、俺も、一回出します、ね…っ! あっ、あぁっ!」
 長谷部くんがちょっとの間、少し早いスピードで腰を振って、ぐんっと奥を押し上げられた。ずるっとおちんちんは抜かれ、長谷部くんがゴムを外す。ぴっと口を縛った使用済みのゴムが、私の顔の前に落とされた。
「まずは、一回」
「はせ、」
「俺が今日、何回イけるか数えてみましょうよ」
「んぁっ」
「主も、まだまだ物足りないでしょう?」
 ヘッドボードの箱から、新しいゴムを出しながら長谷部くんは鼻歌を歌うように言った。どうやら調子が出てきたらしい。そしてまた、私はさっきと同じ体勢で長谷部くんに貫かれた。
「また、この、まま…?」
「いえ、今度は、少し」
 言いながら、長谷部くんは私の片方の太腿をぐっと前に押し出した。脚を絡めるように太腿の間が締まり、当然のように膣も締まって。
「あっ…っ!」
「少し、きつくなりましたね。分かりますか?」
「あっ、ん…っ、んっ」
「……はは、良いみたいですね? 良かった」
 全身を引き攣らせて反応する私を見て、長谷部くんが腰の動きを早くする。一晩で随分元気になったらしい彼は、散々腰を振るってまた精を吐き出した。けれど彼が一回果てる間に、私は何度も達してしまって体がもちそうにない。ずっと横向きなのにも疲れてきて、彼が二つ目のコンドームを結んでいる間に、ごろりと仰向けになって息を吸った。長谷部くんが膝をついてゴムを縛っている。一回目の時も思ったけど、ゴムの先に溜まった白濁の多さにどきりと胸がときめいた。溜まっていたのだろうか。長谷部くんも。
「主。疲れましたか?」
「ん……」
「……俺はまだ、足りないんですが……」
「あはは。長谷部くんのえっち」
「今日は主も、でしょう?」
「うん。いい、よ。もう一回。でも今度は、前からして」
「っ、はい」
 長谷部くんは気が急いたようにまた新しいゴムに手を伸ばした。手早く装着して私の足元に移動し、膝を押し開く。布団はもう完全に跳ねのけられていて、濡れたそこが空気に触れて冷たかった。いつもなら寒さに震える室温が、今は心地いい。ちらりと時計を見ると、まだ七時にもならない時間だった。通りで、暗い。窓からのうっすらとした明かりにも鋭さはない。やっと空が明るみ始めた頃だろうか。
「あるじ……」
「ん、ふ…っ」
 ずるっと挿し入れられた塊に、お腹がきゅんとする。何度目か分からない快感の波が、簡単に全身を満たしていく。私を押し潰すように上体を倒して、長谷部くんは今日初めてキスをしてくれた。
「はっ……んぅ、う…っ」
「んっ、ある…じ…っ」
 ちゅっ、ちゅっとリップ音を立てて何度も。さっきと体位が変わって、ベッドがぎしぎしとよく軋んでいる。長谷部くんが奥に深く突きれたまま腰を揺すってくるのがすごく気持ちよくて、キスをしながら恥ずかしい声を沢山あげてしまった。すき。長谷部くんがすき。こんなに気持ちいいのは、たぶん長谷部くんだから。長谷部くん以外の誰とも、きっとこんなに気持ちよくはならない。
「…っす、き…っ」
「は…っ、?」
「はせ、べ…っあぅっ、す、き……っ」
「!」
 イキ過ぎて判断力が何もない。蕩けているのは、何も繋がっている場所だけじゃなくて、もっと根本的なところから私は長谷部くんに溶かされている。薄いゴム一つ邪魔だと思うくらい、もっと直接長谷部くんを感じたい。まだだめ。許されはしないけど。でも、いつか。
「あ゛…っ!」
 ぐっと長谷部くんに抱き締められて、腰が震える。長谷部くんの腰が、震えているのにつられたのだ。ゴムで隔てられているのに、出ているのが分かった。
「あ…、え…っ?」
「は、すみ、ませ、……すぐに、出てしまって……」
 私を抱き潰したまま、長谷部くんが顎の近くで低く喘いでいる。
「あなたの中、すごく気持ちよくて……。あ、の、」
 もう一回、いいですか。
 囁かれた声に答える代わりに、私は新しいゴムへ手を伸ばした。


   *** ***


 結局私たちが改めて起き出したのは、お昼を回ってからだった。あの後何回したのかよく覚えていないけど、私は少し眠ったらしい。後から使用済みのゴムを数えたら、白濁の量を減らしながらも数自体は六に増えていたから、長谷部くんは本当に元気だな、という感想で落ち着いた。私はというと、無理がたたって腰が立たず、炬燵の上の片付けを全部長谷部くんにやらせてしまったのだった。
「ごめん」
「いえ、ほとんど俺のせいですから」
 後片付けを終えた長谷部くんが、炬燵で横になる私の隣に潜りこんでくる。そのまま唇に吸い付かれて、凝りもせずきゅんっと子宮が疼いてしまった。
「……ちょっと、だめかも」
「主?」
「また変な気分になりそう……」
「えっ。俺は嬉しいですけど、主、明日は仕事でしょう?」
「うん…」
「するのは、休みの前だけにしておきましょう」
「うん……」
「……不満ですか?」
「ちょっと」
「俺の主は、いつからそんなにえっちになったんです?」
「……長谷部くんのせいだと思う」
「ええ?」
「入れるのなしで、触りっこするのは?」
「たぶん無理です。俺が我慢できなくなる気がします。今日の感じだと、主も我慢できないでしょう?」
「うー、反論できないっ」
「まぁ、ゆっくり戻していきましょう。幸い、冬休みはすぐそこですし」
「うん?」
「主、29日からお休みなんでしょう? あと二日頑張れば休みじゃないですか」
「えっ?」
「その間、俺が掃除洗濯料理は請け負います。休みになったら、ずっとセックスしても良いように食糧を確保しておきましょう」
「えっ、待って、長谷部くん?」
「はい?」
 今の口ぶりではまるで。
「いつまで、いるの?」
「? 冬休みが終わるまで、ですが?」
「えぇっ!」
 そういえば、昨日の話では長期旅行をするような口ぶりだった。それにしても。
「もしかしてずっとここにいる?」
「あ、さすがに駄目ですよね。すぐにホテルを探します」
「いや、あの、ホテルは取らなくてもいいけど、ずっといると思わなかったから」
 だから。
「主?」
「……」
「……顔がにやけてますよ?」
「うっ、見ないで」
 そんなに長くいてくれるなら、もう一つお布団を買いに行こうか、と。
 口にした提案は、キスで塞がれて萎んでしまった。
 これであと二日、何もせずに我慢していられるのだろうか。
 心配だけど、キスは嬉しくて。
 とても気持ちよかったから、もう何も考えないことにした。