ディミレス



 視界の隅で部屋の扉が開いていく。この時間に現れるのは一人だけだ。読んでいた書物から顔を上げると、案の定くたびれた顔の夫が入ってくるところだった。黒と青を記帳にした執務服のまま、彼は長い脚を放り出すようにソファへ沈み込む。
「随分お疲れの様子だな、国王陛下?」
 からかいを含んだ声音で言えば、閉じていたひとつきりの瞼が震えて青い瞳を覗かせる。いつもは澄んだ空より蒼い色が、今は精彩を欠いていた。
「……疲れた」
 低く掠れた声に私はひとてゅたつと瞬きを繰り返した。どうやら相当参っているようだ。体力馬鹿とフェリクスに称される夫が、ここまで疲弊するのは珍しい。いつもは頭痛を抱えていても爽やかに笑って見せるくせに。一体どうしたのかと立ち上がって近付くと、気だるげに大きな手が伸ばされた。素直に抱かれてやる。私の体重を加えて、ソファがきしりと音を立てた。
「どうしたんだ、ディミトリ?」
「……うたた寝を、して」
 耳元にかかる声は小さい。張りのない声を聞き逃さないよう、さらに体を擦り寄せた。
「夢を、見たんだ……」
 まだ戦いの続く夢を。終わらない復讐に身を焦がし、友たちの亡骸で山を作る日々を。
「どこにも、お前はいなくて……探しても探しても見つからなくて……」
 立ち上がることが辛くて、歩みを止めることも辛くて、ただ目の前の影を突き刺し、殺し倒すだけの人形になりながら、戦いに勝利したことは夢まぼろしだったのかと、絶望するだけの夢を見たのだと。
「……先生、俺をひとりにしないでくれ……」
「ディミトリ」
 抱きしめてくる腕の力は強い。確かにここにいるのだと、私の存在を証明しようとするかのように。
「ディミトリ、痛い」
「っ! すまない、先生」
「……それと、呼び方が昔に戻っている。いまの私はディミトリの何?」
「……妻、だ」
「じゃあ、なんて呼ぶのが正しい?」
「……ベレス」
「よろしい」
 勿体ぶって頷けば、ようやくディミトリの口から小さな笑みが漏れた。
「ひとりで寝るからそんな夢を見るんだ。うたた寝をするくらいなら、さっさと仕事を投げ出して戻っておいで」
「お前も忙しいだろう?」
「夫の面倒を見るのは妻の特権だからね。少しくらいはどうにかするよ」
「それは頼もしい」
 くしゃりと顔を歪ませるディミトリに呆れてしまう。なんのための夫婦だと思っているのだろう。柔らかな金の髪に手のひらを突っ込んで、ぐしゃぐしゃにかき回してやった。
「うわ」
「相変わらず、馬鹿だなディミトリは。そんなだから、いつまで経ってもフェリクスの猪呼びが直らないんだよ」
「待て、ベレス」
「馬鹿には付ける薬が必要だね」
「!」
 だから、手のひらで頬を挟んで、唇にひとつ。とっておきの甘い薬を。
「……ベレス、もう一回頼む」
 甘さの回った視線が絡む。まったく。私の可愛い夫は、これだから。
 可愛らしいキスのひとつやふたつで、簡単に機嫌が直るのだからいとおしい。
 だけど、そう。これも妻の務めなのだ。
 なんせ私は、ディミトリのことを随分と愛しているのだから。
「一回だけでいいんですか、国王陛下?」
「……意地が悪いぞ、ベレス」
 一度と言わず何度でも。そう呟いた唇を、私はまた塞いでやった。