フェリレス



「フェリクス!」
 訓練場に脚を運んだ俺が汗を流していると、慌ただしい足音と共にベレスが駆け込んできた。懐かしい装いに模擬刀を手にした姿はあの頃のままだ。籍を入れ、夫婦となった俺たちがこうして顔を合わせるのは一節に数えるほど。時には数節会うことが叶わない時もあり、ガルグ=マクに足を向けた際には必ず共に鍛錬を行うことと決めたのは初夜のベッドの中だった。
 いや、いつ決めたなどと言うことはどうでもいい。会える時間が短いながら、互いに忙しく過ごす身だ。共にある時間を少しでも有意義なものにしようと、俺たちはそれぞれ工夫を凝らしてきたつもりだし、これまで上手くいっていると思っていた。
 そう、これまでは。
「どうかした?」
「……いや」
 いつもなら久方ぶりだな、などと呑気な挨拶を交わすのだが、そんな余裕は欠片もなかった。
 ベレスが指輪をしていなかったのだ。
 彼女の瞳と同じ色の石をつけた、求愛の指輪。思い出すのも恥ずかしいやり取りと共に彼女の指を飾ったはずの指輪は、いまその指にない。
「何か変わったことでもあったのか」
「? 変わったこと? いや、特にはないよ」
 曖昧な物言いでは伝わらないことなど分かりきっているだろうに、俺は遠回りな質問で言明を避けてしまった。正面から問いただして傷つくことが怖いのだ。何しろ側にいるより離れている時間のほうが長い。自分が素っ気ない性格であることも理解している。例えばシルヴァンのような、甲斐甲斐しく女の世話を焼くような男がベレスの側に現れていたのなら、男としての俺が不要になるのも頷けることだった。
 俺はただの訓練相手に成り下がってしまったのかもしれないのだ。
「今日を楽しみにしていたんだ。早く始めよう」
「……ああ」
 嬉々として剣を構えるベレスに向かい合いながら、俺はむかむかと腹の中で言い知れない感情が蠢くのを感じていた。

「フェリクス」
 それは呆れだったのだろう。もう何度目になるのか、俺の手元から飛ばされた模擬刀が宙を舞い、訓練場の壁にぶつかってカラカラと音を立てた。
「どうしたの、それじゃあ、怪我をするよ」
「チッ」
 そんなことは分かっている。心ここに在らずだということは、俺が一番腹立たしく思っているのだから。
「何かあったの?」
「何もない」
「嘘だ」
「……」
 さすがに言いくるめられはしないか。こうまで情けない姿を見せたなら、どうせ同じことなのだろう。
 腹を括って、俺はベレスに向き直った。
「指輪はどうした」
「指輪?」
「お前にやった指輪だ」
 まさか指輪そのものを忘れた訳ではないだろうな。前回会った時には確かに指で光っていたはずだ。
「ああ。それなら、ここに」
 言うなり、ベレスは自分の胸の谷間に指を突っ込んだ。
 ぎょっとする俺の前で、細かな金鎖に繋がれた指輪が引っ張り出された。肌に馴染む色だったせいで、鎖が首にかかっていることに気付かなかったのだ。指ばかり気にしていた弊害だろう。
「この間、イングリットに会って、鍛錬の間は外したほうが良いと言われたんだ。壊す可能性について考えていなかったから、なるほどと思って首にかけることにしたんだけど、もしかして失くしたと思った?」
 もっと最悪な想像をしていたなどと、どうして言えるだろう。無言を貫く俺に、どうやら返答がないことを肯定ととったらしいベレスが笑う。
「そんなわけないだろう? フェリクスから初めて貰った贈り物をなくすなんて」
 そんな勿体ないことはしないよ。ベレスはそう言うと、手のなかの指輪をとても大切そうに撫でた。
 俺はまるで自分が撫でられたような気になって、ふいと横を向く。気恥ずかしいことを、こうも面と向かって言われたら、どう反応していいのか分からない。
「……それくらい、いくらでもくれてやる」
「また指輪をくれるの?」
 そうじゃない。だが、こういう時にんと言えば良いのか俺はよく分かっていないのだ。また黙り込んだ俺に、ベレスは首を傾げながら言う。
「指輪より、フェリクスがいいな。もっと一緒にいる時間が増やせると良いのだけど。明日もまた鍛錬に付き合ってくれるだろう?」
 まるで恥じらいを知らない物言いに、今度こそ俺は絶句した。まったく、俺の妻は平気でこういうことを言うから油断がならない。
「……明日お前の腰が立つなら考えてやってもいい」
「腰?」
 全く理解していない様子だが、俺は勝手に決めてしまった。今夜は足腰が立たなくなるまで苛めてやろう。俺を不安にさせた罰だ。それくらいの仕返しは、許されるだろう。
 おそらく何も気付いていない鈍感さに安堵しつつ、俺は落ちたままの模擬刀を拾いあげるのだった。