夫婦のあり方



 先を潰した剣先が喉元につきつけられる。手の中の刃は代わりに空を切った。
「フッ、俺の勝ちだな」
 構えていた剣を下ろしながら、嬉しそうにフェリクスが言う。額から滴る汗を袖で拭い、ほつれてきた髪をかきあげる姿はこの数節で見慣れたものになっていた。
「また動きが速くなったね」
「日頃の鍛錬の賜物だな。お前は少し鈍ったんじゃないのか」
「そうかもしれない」
 フェリクスと同じように汗を拭いながら、ベレスは彼の言葉に頷いた。元々、フェリクスより筋力も上背も負けているのだ。この有り様では彼から一本取るのも難しくなるかもしれないなと、どこか遠いことのように思う。
「どうした?」
「え?」
「何か益体もないことを考えていただろう」
「どうして分かるの」
「そういう顔をしていた」
 ふに、と頬を摘ままれ呆気にとられる。結婚してから、フェリクスはこうしたささやかな触れ合いを厭わなくなった。さすがに人前でべたべあとすることはないけれど、今のように二人きりだと遠慮がない。伸びた頬はすぐに手放され、そこにはフェリクスの指の感触だけが残った。
「何かあるなら言ってみろ」
「……もうフェリクスには勝てないかもしれないと思ったんだ」
 どうしたって戦いに明け暮れていた頃のようには鍛錬ができない。肉体は衰えていくばかりでフェリクスと互角に打ち合えなくなる日もいつか来るのだろう。もしそうなったら。フェリクスは自分から離れていってしまうのではないか。自分たちの関係の根本には闘争心が燻っているのをベレスは理解していた。それは一般的な夫婦のあり方とは違うものだ。
「何を言うのかと思えば」
 呆れたようなフェリクスの声に瞬けば、するりと頬を撫でられた。
「俺がいつまでも負けたままでいるはずがないだろう」
 ふん、と鼻を鳴らしたフェリクスに見下ろされている。それに、と彼の言葉はまだ続いた。
「お前はそのうち俺の子を産む。遅かれ早かれ、剣を握ることなどできなくなるのは分かっていたことだ」
 フェリクスの視線が一瞬ベレスから離れた。周囲をちらりと一瞥し、人の気配がないことを確認したあとで、ほんの一瞬。
 掠めるようなキスが唇に触れて離れていった。
「愛していると言っただろう。お前も、いつか生まれてくる子どもも、まとめて俺が守ってやる。お前は安心してなまくらになれ」
 それが俺たちの将来なのだと、僅かに赤くなった顔を逸らして、フェリクスは言った。
「フェリクス」
「なんだ」
「もう一回キスをして」
「っ、お前は」
「嫌だと言われてもするんだけど」
 ぐい、とフェリクスの首に腕を伸ばし、ベレスは自分から唇を押し当てた。さっきよりずっと、フェリクスを近くに感じるキスだ。
「っ、離せ! ここをどこだと」
「私も愛してるよ、フェリクス」
「!」
 みるみる赤くなるフェリクスに微笑み、ベレスはもう一度彼にキスをした。