002

結晶

「はぁ、あんたが足りない」
 帰宅するなり抱き着いてきた夫に、ベレスはこてりと首を傾げた。普段からスキンシップの多い夫だが、これほど我慢ができていないのは珍しい。
「何かあった? シルヴァン」
「聞いてくださいよ、先生!」
 ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなる。ぐえ、と小さく呻いたベレスに、シルヴァンは慌てて腕の力を緩めた。
「すみません。いやでもその前にキスしてもいいですか。ちょっとあんた欠乏症でどうにかなりそうなんで」
「構わないけど……欠乏症? んっ」
「ふ……っ、ちゅっ」
「んんっ」
「……はぁっ、ちょっと補給できました」
 ぺろりと唇を舐めて、シルヴァンが言う。口の中をぐるりと舐められたベレスは閉口した。こと、男女の行為でシルヴァンの手管に勝てる見込みはない。
「それで、何があったの?」
「ああ、そうなんです。聞いてくださいよ。今日の市街視察、フェリクスのやつが一緒だっていうのは言ってましたよね?」
 北の要所ゴーティエ領では、長く北の民との戦が続いていたこともあり、市街地に備蓄を貯め置く兵糧庫が設けられている。戦時では兵の詰め所としても使われるこの設備は、平時においても災害や飢饉の折に解放される仕組みで、民に受けの良い施策であるのだが、これをフラルダリウス領から参考にしたいとの打診があったのだ。気心の知れている者が案内をしろとシルヴァンに白羽の矢が立ったのをベレスも知っている。ゴーティエ辺境伯に顎で使われるのを嫌がっていたシルヴァンが、それでも今朝はいってきますのキスひとつで大人しく出かけていったのを思い出し、ベレスはうん、と静かに頷いた。
「それがですね、街に出てしばらくしたら、こう……赤毛の子どもが飛びついてきて、『父上ー!』って叫ぶわけですよ」
「えっ、シルヴァンの隠し子?」
「……ってなりますよねー、とほほ」
 がっくりと項垂れながら、シルヴァンは語った。共にいたフェリクスに冷たい目を向けられ、付き従っていた騎士たちにも生暖かい目を逸らされ、赤毛の子どもにはしがみつかれる。一体なんの冗談だ、と頭を抱えていたところに、女がひとり飛び出してきた。
 亜麻色の髪の、そこそこ綺麗な顔立ちをした女だが見覚えはない。赤毛の子どもを叱りつけながら、平身低頭してその場を去ろうとしたから逆にシルヴァンは声をかけた。女の様子が妙に気にかかったのだ。誰かに似ている。それが肖像画でしか見たことのない、兄の母親だと気付くまで時間はかからなかった。
「――兄上の子どもだったんです」
 子どもは、父親がゴーティエ家の子息だと聞かされて育ったのだろう。対外的に、ゴーティエ家の後継はシルヴァンひとりということになっている。だから間違えたのだ。
「随分貧しい暮らしをしているみたいで。まったく、いつになってもあの人は碌なことをしない」
 そう口にしたシルヴァンだったが、言葉ほどの棘はその声に含まれていない。五年と少し前、自らが討伐に出向いた賊とはいえ、血を分けた唯一の兄弟だ。
「シルヴァン」
「死んで五年も経つのに、まだ尻拭いが必要なんですよ。笑っちゃいますよね」
「シルヴァン」
 ベレスはぎゅっとシルヴァンを抱き締めなおした。大人しく抱かれたままになったシルヴァンが、ぽつりと言う。
「……きっと、父上も母上も、あの母子のことなんて気にかけてやらないと思うんです」
「シルヴァンは違う?」
「腐っても叔父になるんですよ。できる限りのことをしてやりたいと思うのも、偽善ですかね」
「いや。シルヴァンがしたいようにすればいい」
「先生」
「うん」
 助けを求めるように引き寄せられる。それに逆らわず、ベレスはシルヴァンの唇を受け入れた。こうして触れ合うことが、シルヴァンの癒しになるならそれでいい。
「ん。そうだ、シルヴァン」
「なんです、先生」
「私たちも、子どもを作ろう」
「……はい?」
「シルヴァンに似た赤毛の子ども」
「いや、俺はどっちかというとあんた似のほうが……ってそうじゃなくて!」
 腕の中のベレスをまじまじと見下ろし、シルヴァンは本気ですか、と唸るように言った。
「冗談でこんなこと言わないよ」
 ベレスは知っている。シルヴァンが子作りに消極的なことを。まだマイクランと自分が経てきた子ども時代にうまく折り合いがつけられていないことも。けれどベレスはシルヴァンの子どもが欲しかった。紋章があってもなくても、きっと可愛いだろうと思う。いくらでも愛せるし、シルヴァンが望むなら何人産んでも構わないと思っているのだ。
「そろそろ、私の中で出したくないか?」
 何を、とは言わなかったが、シルヴァンは顔を赤くした。
「どこでそんな煽り文句を覚えてくるんです?」
「さぁ、旦那様がそういうことに詳しいから、自然と、かな?」
「俺はそんなこと教えてませんよ!」
 恨めしそうにシルヴァンが言うから笑ってしまった。これで時々驚くほど可愛らしいのだ。ふふ、と笑っていると、怒ったようにまた口づけをされた。シルヴァンのキスはいつも優しい。情熱的に見えて、その実は真綿でくるむよう。柔らかく唇を食んでいくキスに、うっとりと目を閉じたベレスは、そのままシルヴァンの腕にしなだれかかった。
「それで、どうする? シルヴァン」
「……俺にも我慢の限界はありますからね。今夜は泣かせるんで覚悟してください」
 物騒な物言いにベレスはひゃっと首を竦めた。


***


「あっ、シルヴァン、奥……っ」
「ん? 奥がどうか、しましたか?」
「やぁ、奥、当たってる……っ」
「はは、当ててるんですよ、先生」
 どちゅんっと深く穿たれる。それだけで胸が苦しくなって、はくはくと呼吸を求めたのに唇を塞がれた。分厚い舌が絡みつき、呼吸どころではなくなってしまう。息が苦しいのに、シルヴァンの腰は止まらない。
「はっ、あっ、あっ、んっ」
「先生、めちゃくちゃエロいですよ」
 嬉しそうな声で言うんじゃない。そう言って睨んでやりたいのに、生理的にあふれてくる涙で視界は潤んで滲み、赤い髪が揺れるのしかもう分からない。
「ああ、泣いちゃいましたね」
 宣言通りの状況を楽しそうに見下ろして、シルヴァンはまた腰を大きく揺すり出した。繰り返す律動は深く、大きく、体全体を揺さぶられるようだ。胸が大きく跳ねる。それが少し痛くて顔を顰めた。
 シルヴァンとのセックスはいつも一方的に気持ちよくさせられる。踏んだ場数の違いなのか、ベレスはシルヴァンに翻弄されるばかりなのだ。けれど、時に優しく、時に荒々しく、ベレスを抱くときのシルヴァンはいつもより少し素直で、そんなシルヴァンのことを愛おしく感じてしまう。
 今もまた、シルヴァンは余裕のありそうな顔でこちらを見下ろしているのに、その表情はどこか頼りなげな雰囲気で、思わずベレスは彼の頬に手を伸ばした。
「ん、どうしました、先生?」
「あっ、んっ、シルヴァン、気持ちいい?」
「ええ。そりゃあ、とっても」
「中で出せそう?」
「っ! だからあんたは、どうしてそういう……っ」
 ごり、と最奥を捏ねられてつま先がしなる。駆け上がった快感をやり過ごしていると、腰の動きを止めたシルヴァンが、どさりと上から突っ伏してきた。抱き締められるように体が密着し、重い体躯に押しつぶされる。繋がった場所はまだじんじんと痺れを帯びていたけれど、幼子のように首元へすり寄ってきた赤い頭をそっと抱えた。
「シルヴァン?」
「……怖いんですよ。どうしたって、俺は子どもを紋章で縛るしかないんですから」
「それはゴーティエ辺境伯として、だろう?」
 癖のある赤毛に指を通しながら、ベレスは言う。シルヴァンは自分を殺したいほど憎いと言っていた。そう思うだけの時間を、過ごしてしまったのだ。過ぎ去った昔を変えることはできないけれど、これからの話ならベレスにも語ることはできる。
「大丈夫。シルヴァンは、どんな子でも大切にできるよ。紋章があってもなくても、私たちの大切な子どもだ」
「先生」
「紋章云々でシルヴァンみたいに悩みだしたら、殴ってでも愛してるって分からせるから、心配しないで」
「ははっ、それはちょっと怖いですね」
 頭の上で笑う振動が心地いい。ぎゅっと、その頭を抱きしめた。
「でも、一番愛してるのはシルヴァンだからね」
「……ほんと、どこでそういう殺し文句を覚えてくるんです?」
 俺だって、愛してますよ。
 耳元に囁かれた声を契機に、腰の動きが再開した。
「や、また奥……っ」
「奥、好きでしょ? こことか」
 ぐるりと腰を回して奥を掻き回された。何度もシルヴァンに教え込まれた快楽が、またじわじわと溜まっていく。
「だめ……っ」
「好さそうですけど?」
「やぁっ、シルヴァン……っ」
「く……っ」
 意図せず締め付けた内側の動きに、シルヴァンが腰の動きを速くした。次第に雄々しさを増す腰の動きで、降りてこられない高みに打ち上げられていく。止まない快感が怖いくらい。つま先から痺れてくる。
 イく。
 そう思った瞬間、獣が噛み付くような荒々しい口づけが襲って、頭の芯が真っ白に焼け焦げた。
「――ッ!」
「ベレスっ」
 名前を呼ばれたのと、快楽が弾けたのは、どちらが先だったのだろう。びくびくと跳ねるベレスの腰に、シルヴァンが緩く腰を押し付けてくる。
「……出し、た?」
「……ええ、まぁ」
「気持ち良かった?」
「っ、当たり前でしょう? ……最高でしたよ」
 腰が離れた瞬間、それまで満たされていた場所が心許なくなる。今日はさらに、溢れていくモノを感じて寂寥感がベレスの胸中を満たしていった。
「シルヴァン、キス」
「はいはい」
 寂しさを埋めるためのキスは必須だ。行為の後にねだるのはいつものことで、心得たシルヴァンは優しく何度も口づけてくれた。吐精の際の、荒々しい口づけとはまるで異なる、慈しむようなキスは心地よく、ベレスはもっと、とシルヴァンの首を抱き寄せた。
「あんた、キス好きですね」
「シルヴァンが、うまいから」
「……またそう言う……はぁ、いいですけどね」
 散々キスを繰り返してから、シルヴァンはごろりと体を横たえた。長身の体は大きく、槍を振るうための腕は太い。その体にぴたりと寄り添って、ベレスもまた深く息を吐いた。
「もし、子どもができたら」
 ぽつりと言い出したシルヴァンを見上げると、頼りなげな視線が絡んだ。
「紋章、出てきますかね」
「どっちでもいいよ」
「……そう、ですね」
 ふ、とシルヴァンが笑う。それはまだどこか不安げだったけれど。
「あんたが俺の妻で良かった」
「うん」
「ベレスさん。愛してます」
「うん。私も」
 心地良いキスをもう一度。
 キスがこんなに優しいのだから、きっと。シルヴァンは良い父親になるよ。