003

恋慕情

 ガキの頃からずっと、人生なんてつまらない物だと思ってきた。俺はただの道具で、この先の未来に幸せなんてものはひとつも転がっていない。俺を憎み、妬む兄上から逃れて生き延びるのも、父上や母上からの重苦しい期待を両肩に背負うのも、すべて俺がゴーティエという家を繋ぐための道具だからに他ならない。まだ幼い頃、兄上に突き落とされた井戸の中で、冷たい水に溺れながら、俺は幸せなんてものは終ぞ縁のないものだと思い知ったのだ。
 生きていくうえで、必要なものは少なかった。当たり障りのない人間関係に、適度な鍛錬と社交。年の近い幼馴染たちといる時だけ、ほんの少し俺の心は和らいだ。けれど決定的に互いの内側へ踏み込むことはしない。誰も彼もが紋章と家のしがらみに囚われ、喘いでいる。俺にはそれが、ファーガス神聖王国の、いや、このフォドラ全体を包む呪いのように思われてならなかった。
 いつの間にか、俺はいつもへらへらと笑うようになった。口さがない連中の蔑むような言葉にも、女たちの粘つく視線にも、同じ顔で対応できるようになったのは大きな成長だ。誰に対しても俺は同じような態度でのらりくらりとやり過ごすことを覚え、その分だけ何かが傷つくことは少なくなった。
 契機が訪れたのは、ある春のことだった。ディミトリ殿下や幼馴染のフェリクスが、ガルグ=マクの士官学校に行くという話が持ち上がったのだ。当然のように俺もそれに追従することになった。ブレーダッド王家とフラルダリウス公爵家との繋がりを求められるのも、年の近い俺にとっての責務だったのだ。俺はこの時ばかりはほんの少し喜んだ。煩わしい家の束縛から、束の間でも離れられるのだ。殿下やフェリクス、それにおそらく俺と同じように遣わされるだろうイングリットは、多少口煩いがそれだけで、老獪さや陰湿さがない分付き合いやすい。ガルグ=マクでの一年間は、俺にとって少ないご褒美のようなものになるだろうと考えていた。
 あの人に出会うまでは。

 静かな深い湖面のような色の髪と、夜の空色の瞳をした女は、俺とたいして年の変わらない若さだった。それなりに整った見目と、殿下でさえ圧倒するような剣技をもった類まれな女。笑うことも怒ることもせず、ただ淡々と日々を過ごす姿に、俺はひどく心惹かれた。
 最初は俺と似ているのかと思ったのだ。人生に倦んだのか、それともすべてを諦めているのか、感情を外に出すことをよしとせず、ただ黙々と日々を過ごしている――そんな風に見えてしまったから。少し付き合えば、なんのことはない。彼女はただ表情筋の動きが乏しいだけだった。
 そんな女が担任だと言われても、俺には関係ないことだと思っていた。女だろうが、男だろうが、若かろうが年寄りだろうが、教えられる内容に違いなどないだろう。嬉々として訓練場に向かうフェリクスや、尊敬の念を隠そうともしない殿下を見ていると、むしろこの女が担任で良かったのだろうとも思っていた。でもそれは、間違いだったのだ。
 先生は紋章そのものについて何も知らなかったのだと、ハンネマンが言っていた。彼女は自分が紋章持ちであることも、ガルグ=マクに来てから知ったのだと。
 その時の感情を、どう表せばいいのだろう。ああ、俺にはこんな激情もあったのかと、そう思うだけの大きな渦が、腹の中でのたうった。それは怒りであり、妬みであり、純粋な憎しみに違いなかった。俺ははじめて、自分がずっと忌避していた嫉妬という感情を覚えたのだ。
「今日も美人ですね、先生」
 この口からはいくらでも、思ってもいない台詞が出る。軽薄に笑い、少し愛想よくすれば、大抵の女は俺に参って落ちてくる。それが滑稽で、何度も繰り返しているうちに、女にだらしないという評判がついてまわるようになった。
 女なんてものは、醜いだけだ。見た目こそ花のように着飾りながら、その実汚れた感情ばかりを抱えて近づいてくる。次の獲物は紋章か貴族の肩書か、大抵この二つであることが面白いくらいだ。少し遊んで、頃合いに別れる。それのどこがいけないのだろう。初めから俺に愛などないことは分かっていて、落ちてくる女が愚かなのだ。
「また女性を泣かせているの」
 いつの頃からか、先生が小言を言うようになった。迷惑はかけていないのに、俺の素行に口を出す。まるで本物の教師のようだ。
「嫌だなぁ。ちょっと遊んで気楽に別れようって、そういう約束だったんですよ、最初から」
「……理解できない」
 珍しく顔を顰めながらそう言われた。そうでしょうとも。あんたに俺の何が分かると言うんだ。
「そりゃ、あんたと俺は違いますからね」
 そう、何もかも違うじゃないか。俺はずっと、紋章に縛られて、家に殺されて生きていた。あんたみたいに能天気に、その身に宿した大紋章の存在を知らず、貴族のしがらみに囚われず生きてこられたなら、俺だってもっと別の人間になれただろう。だけど、今ここにいる俺はこんな男にしかなれなかった。なれなかったんですよ、先生。
 日々憎しみは膨らんでいく。目の前にいる女の、取り澄ました顔をめちゃくちゃに歪ませることができたなら、俺のこの気持ちも少しは楽になるのだろうか。

 白い月が、中天にかかって濃い影を作っていた。夜半を過ぎて出歩く者は少ない。ふらつく脚を叱咤して歩いていると、突然静かな声に名前を呼ばれた。
「シルヴァン。何をしているんだ」
 今この時、この世で最も会いたくない人の声だった。俺は暗がりを良いことに、思い切り顔を顰めて見せたが、出した声はいつもよりも明るかった。
「先生! あんたこそ、こんな時間に何をしてるんです?」
「眠れなくて、少し剣を振ってきたところだよ。それより、どうしたの。大丈夫?」
 近づくにつれ、俺の様子がはっきりと見て取れるようになったのだろう。殴られた場所が痣になっているのかもしれない。俺は痛む頬をなるべく動かさないように、それでも唇を持ち上げて笑った。
「ちょっとヘマをしまして。男っぷりが上がったでしょう?」
 場末の酒場で喧嘩に巻き込まれたのだと、誤魔化してみたがこの人には分かってしまうのだろう。ちょっかいをかけた女に男がいた。ただそれだけの話なのだが。
「手当てをしよう。部屋においで」
 そっと手を引いて促される。俺は珍しく逡巡した。この人の言葉には、無条件で従いたくない。そんな子どもみたいな反発心が湧いたのだ。だが、ここで従うほうが俺らしいのかもしれない。どうするか考えあぐねているうちに、先生はぐいぐいと腕を引く力を強くした。
 結局俺は、先生の好意に甘えることにした。寮の狭い一室に連れ込まれ、明かりの下で怪我を検分される。目に見えるのは頬の痣だけだったが、胴にもいくつか拳を受けた記憶がある。そう伝えると、服を脱げと促された。
「ちょっと待ってくださいよ。いくらなんでもそれは」
「別におかしなことをしようと言うんじゃない。手当てをするだけだよ」
「いやいや、この場合何かするってんなら俺のほうでしょう?」
 夜中に女の部屋でふたりきり。そこで服を脱いで何事も起こらなかったためしはない。そう思っての忠告だったのに、先生は首を傾げてさっさと脱げと促すばかりだ。
「あんた……いくら腕が立つからって警戒心がなさすぎますよ」
「問題ないよ。もしシルヴァンに襲われたら、大声を出す。そうしたら隣のドゥドゥーに聞こえるだろう? 危ないのはシルヴァンのほうだよ」
 何も分かっていない顔でそんなことを言う。この女は馬鹿か? 口を塞げば、声なんて出す前に事は終わるのに。そんなことを言えるはずもなく、俺はとうとう制服を脱ぐ羽目になった。背中や腹にできた痣に白魔法をかけながら、こんこんと説教をされたが半分は聞き流した。今更、この性格をどうにかできるとは思っていない。
「聞いているの、シルヴァン」
「聞いてますよ」
「私は心配して言ってるんだ」
「心配。心配、ねぇ。……そんなに親身になってくれるなら、先生が俺の相手をしてくれます?」
 どうせ口だけの心配なのだ。少し揶揄ってやれば、離れていくに決まっている。そんな打算から先生の腕を掴んで引き寄せる。腕の中に引き込んだ細い腰を撫でると、分かりやすく女の体が震えた。
「……わかった」
 だから、聞こえた答えに耳を疑った。分かった? いまこの女はそう言ったのか?
「何をすればいいの、シルヴァン」
「……何って、キス、とか?」
 言ったそばから顔が近づいてくる。俺は唖然としながらその唇を受け止めた。触れるだけの子どもじみたキスだ。物足りない。そう思ったのが俺だけだったのは明らかだった。僅かに頬を染めた先生の首を無理矢理引き寄せた。
「っん――」
 ぴちゃり、と口腔で粘液が弾ける。絡ませた舌の温度は俺のほうが高かった。
「キスってのは、こうやるんです」
 間近で覗き込んだ夜色の瞳は、こんな時でも静かだった。ああ、その瞳だ。俺が一番嫌いなのは。なんでも見透かして、なんでも曝け出す。俺には逆立ちしたって真似できない、どこまでも綺麗な瞳の色。
「……キスだけで終わりなんて、言わないでしょうね?」
 服の上からまろやかな尻を撫でた。先生は静かに頷く。どこまで馬鹿なんだ、この人は。けれど俺は絡みついた糸を解いてやるほど親切ではない。軽く手を引いてベッドに導くと、あとはもう、ただの男と女になった。
 一糸まとわぬ姿を晒した先生は、端的に言って綺麗だった。傷のあとはあるものの、豊かな胸や、色の白い肌は柔らかく甘い匂いがする。剣を振るうために鍛えられた腕や腹も、男のそれに比べればどこまでも柔らかだった。
 この女を、今から汚すのだ。そう思うと、俺は簡単に欲を覚えた。はち切れそうに膨らんだ熱を、隠すこともせず女の股に擦りつけながら愛撫をする。抱き合ってしまえば、あの静かな瞳にも小さな熱が灯ったように思えた。柔い肌に口づけを落とすたび、あえかな吐息が女の唇を濡らす。
 優しく乳首を舐めた後、柔い乳房に噛み付いた。がり、と音が鳴るほど強くつけた歯型が残る。
「……いつもこんなことをしているの」
「まさか。あんただけですよ。……あんたなら、俺がどんなに乱暴を働いても、見捨てないでくれるんでしょう?」
 こんな俺を見捨てられずに、こうして肌まで重ねているあんたなら。
「先生、ちゃんと外で出すんで、入れてもいいですか」
 くちゅりと入り口を熱で擦りながら、俺がねだるのを先生は黙って聞いていた。否定も肯定も、彼女の口は語らない。ああ、ずるい女だな。俺にすべてを委ねるなんて。
「ねぇ、先生」
 熱い吐息が女の耳を犯す。それと同時に、亀頭が女の股に潜った。
「っ、ん」
 堪えきれずに漏れた女の声に、気を良くした俺はそのまま腰を沈めていった。きつい締め付けが俺を受け入れ、絡みつくように熱を包んでいく。ああ、やっぱり先生もただの女なのだ。俺はその事実に安堵して、最奥までうずめた剛直をずるりと一気に引き抜いた。
「っひぁ」
「はぁ、先生」
 再び怒張を押し込む。遠慮のない抽挿に、女は体を強張らせて俺にしがみついている。キスすらまともにできない女だ。初めてで痛むのだろう。だが、それに対する気遣いを俺はすべて放り出した。ただ自分が好くなるためだけに腰を動かす。泥濘に包まれているように、女の胎は気持ちがいい。次第に腰は動きを速め、俺はひとりで享楽の渦に溺れていった。
 女の腹の上に精を吐き出したとき、俺は言い知れない支配欲を満たされて恍惚としていた。ただの女に成り下がった先生を組み敷いて、満足の息を吐く俺に、先生は言ったのだ。
「……うまく、できてた?」
 瞬間、俺は汚れているのは俺だけだと言われたような気がした。この人は、俺に汚されただけだ。ただの一度も、自分から落ちてはこないのだ。俺が側を離れれば、また清廉潔白な人として、この人は歩き続ける。それが無性に悔しかった。

 その日から俺は、許される限り、毎日先生を抱くようになった。月のものや、行軍の都合で体を重ねられない時ですら、隙を見つけては唇を貪り合う俺たちの関係は、きっと殿下やフェリクスにはバレていたのだろう。時折、もの言いたげな視線を向けられることがあったけれど、ただそれだけのことだった。
 先生は、俺に手ひどく抱かれることをどう思っているのだろう。女遊びが鳴りを潜めたことには満足しているようだったが、俺に抱かれてもただの一度も達したことがないのは確かだ。夜毎俺だけが昂って白濁を溢す。それは俺の無様さを象徴しているようなものだった。
 行為を重ねていくうち、先生の胎は俺の形に馴染んでいった。最初の頃のように、痛みに顔を顰めることもなく、ただ淡々を俺を受け入れる。俺はそれをいいことに、前戯もそこそこに女の胎を暴くのだ。ただ一時、この人を汚したという事実を得るためだけに。ああ、俺は何がしたいのだろう。
 そんな折だった。先生の父親が刺されて死んだ。冷たい雨の中で、冷えていく男の体を抱えた先生は泣いていた。この人が泣くのを見るのは初めてだった。静かな瞳に激情が燃えている。俺が終ぞ、その瞳に灯すことのできなかった光だ。暗く冷たいその光を宿してもなお、先生の瞳は澄んでいた。
 ――終わりにしよう。
 俺はこの時初めてそう思った。最初から無謀だったのだ。この人は、俺と生きる場所が違いすぎる。俺のように堕ちてはこないのだ。そのことをようやく俺は理解した。

「シルヴァン」
 夜更けに部屋の扉が叩かれた。控えめな声に扉を開けると、立っていたのは先生だった。
「どうしたんです、こんな時間に」
「眠れないんだ」
「無理をしてでも寝てくださいよ。あんたに倒れられたら困ります」
「……抱いてくれないか。そうしたら、眠れる気がする」
 俺は少し目を瞠った。あんな雑なセックスでも、この人は満足していたのか。いや、違うだろう。ただ体が疲れて眠りやすくなるだけだ。鍛錬を行うのと大差ない。
「それに、しばらく部屋に来なかっただろう? 遠慮しているなら、気にしなくていい」
 ガルグ=マク中がジェラルトの死を悼む中で、先生を取り巻く空気は常に哀悼に満ちていた。だから離れるのに都合が良かっただけだ。別に、気遣っていたわけでも、遠慮していたわけでもないのだが、先生はそう考えていないようだった。
 いつものように唇が重なる。離れていた時を惜しむように、先生の舌は積極的に俺を求めてきた。それをいじらしいと感じた自分に腹が立った。
 どちらからともなく抱き合ってベッドに倒れ込む。服を脱ぐことすらもどかしいと言うように、彼女は俺の股間に手を伸ばした。
「ははっ、そんなに俺が欲しいんですか、先生?」
 返事はキスで返ってきた。貪欲に俺を求めるこの人のキスは、驚くほど甘くて眩暈がした。
 性急に俺たちは下半身だけを探り合う。蜜を滴らせる女の股に、俺は膨れた熱を宛がおうとして我に返った。 
「……どうして泣いているんです」
「すまない。人肌に触れたら、少し安心して」
 頭を殴られたかのようだった。この人は、俺に甘えている。こんな、どうしようもなく愚かな男に縋って、涙まで見せるほどに弱っていたのか。
「先生」
 俺は慌てて先生の体を裏返した。目を見て抱けるほど平静ではない。うつ伏せになった女の尻の間から、熱を挿し込む。ぬるりと入り込んだ場所は、いつもと違う角度で俺を締め付けた。
「シルヴァン……っ、この体勢……っ」
「泣き顔、見られたくないでしょう?」
 あんたのためだと嘯きながら、俺は自分の保身のために女の肩口へ噛み付いた。歯形をつけた細い肩に、何度も舌を這わせる。
「あっ、あぅっ、シルヴァン……っ」
「声、もっと抑えてください。殿下に聞こえますよ」
 石造りの寮は音を通しにくいとはいえ、こんな夜更けだ。人の声は良く響く。低く耳元で囁いてやれば、膣壁がくっと小さく絞れて息が詰まった。
「シルヴァン……っ、シルヴァンっ」
 俺の名前ばかり呼ぶ声が、甘く掠れていく。明らかに今までと違う先生の様子に、俺は急に不安になった。剥き出しの尻だけを持ち上げ、さらに深く奥を穿つ。その瞬間、太ももを引きつらせて先生は達したようだった。
 疑いようもなく感じ入って腰が震えている。締め付ける膣の圧力も強く、俺は一度、二度と腰を揺すって奥を広げようとした。そのたびに、女の腰が跳ねる。俺の心臓が嫌な音を立てた。違う。これは誰だ。俺が知っている女とは、全然違う。
「シルヴァン……?」
 女がこちらを振り向いた。突然中から抜け出た俺を訝しむその目には、確かに情欲の熱が浮かんでいた。少し前の俺なら、その瞳に歓喜しただろう。やっと堕ちてきた女に、浮かれてもっとその体を貪っていたはずだ。なのにどうして、俺はこんなに戸惑っているのだろう。
「先生」
 怖い。
「もしかして俺のこと、好きになっちゃいました?」
 この人の瞳が、あの静けさを失ってしまうことが、猛烈に怖くて逃げだしたくなった。
「やめてくださいよ、先生」
 はっ、と乾いた吐息が零れる。俺は唇を歪めて笑っていた。
「俺はあんたのことなんて、大嫌いなんですから」
 体を起こす俺の下で、先生が仰向く。その瞳が一瞬、悲しげに曇ったように見えた。
「俺はずっと、あんたが羨ましかった。……妬ましくて、憎らしくて、いっそ殺してやりたいとさえ思うくらいに」
 裸の女に跨った俺は、両手で彼女の首を掴んだ。手のひらに力を籠める。戸惑ったような瞳が俺を見ている。静かで美しい、夜の空色。そうだ。この瞳がいい。いつも俺を見透かすような、澄んだ瞳。俺が汚そうとして失敗したままの、あんたでいて欲しい。
「苦しいですか、先生? 俺はね、もっとずっと苦しかった」
 手の中の細い首は柔らかい。圧迫する指の力を少しずつ強くすれば、くぐもった呻き声が彼女の唇から零れてきた。俺の手を掻く細い指。皮膚をかりかりと擦る爪先が、痛くて心地いい。
「俺の人生は、紋章のせいでめちゃくちゃだ。兄上に殺されかけ、この先に待っているのは飼い殺しのような未来だけ。なのにあんたは、紋章のことすら知らずに生きてきたんでしょう?」
 ふっと手の力を抜くと、束の間の開放に先生が大きく息を吸うのが見えた。それを確認して、また俺は両手に力を込めた。
「もっと苦しんでくださいよ。俺が満足するまで、もっと」
 あんたを汚したかった。だけど無駄だと思い知らされて安堵もした。俺とあんたは違うのだと、明らかにあんたとは生きる場所が違うのだと分かって、あんたに憧れる自分を憐れまずに済んだのに。
 あんたが俺なんかに溺れたら、俺はどうやってあんたを羨めばいいのだろう。
「ああ、そうだ。どうせなら、俺の子でも孕みますか。そうすればあんたも俺の仲間入りだ。貴族のしがらみに囚われて、俺と同じように苦しめばいい」
 違う。そんなことを言いたいんじゃない。やめろ、と騒ぐ声が頭の隅で聞こえる。けれど俺の体は言うことをきかなかった。
 首を抑えていた両手のうち、片方の手のひらを外すと、俺は空いた手で彼女の膝を割った。外気に晒された女の股は、もうとっくに冷えている。その隘路を、俺は容赦なく怒張で貫いた。
 白い喉がうねる。左手の下で大きく震えた喉が、ひどく無様な喘ぎ声を漏らした。
 いつもより、締め付けがきつい。その狭い膣壁を、押し開くように俺は腰を振るった。熱くなる体と反対に、頭の芯は冷えていく。両手で握りなおした細い首に、俺の指が食い込んでいた。
 ああ、もう訳が分からない。俺はこの人を汚したくて、壊したくて、ぼろぼろに傷つけたいのに、変わらないでいて欲しかったのだ。ずっと俺を裏切って、ただ美しいままでいて欲しかった。
 俺は彼女の首から指を離すと、その手で柔らかな頬を包み込んだ。噛み付くようにキスをする。そしてそのまま、彼女の奥深くに精を迸らせた。

 俺はね、先生。あんたがずっと羨ましかった。紋章持ちの俺たちは、少なからず誰もが問題を抱えてる。誰だってこんな力を欲していたわけじゃないのに、俺たちは何かに選ばれちまって逃げられない。それをうまく受け入れられた奴は幸運だ。でもそうじゃない奴のほうが多いんですよ。だからあんたが、何も知らずのうのうと生きてこられたことが妬ましくて憎らしい。……殺してやりたいほどっていうのは嘘じゃありません。だけど、ああ、それなのに。それと同じくらい俺はあんたが綺麗で憧れてたんだ。まっさらのあんたは眩しかった。月みたいに遠くて、手に入らないことが分かっていたからこんな汚れた手を伸ばせたんです。ねぇ先生。終わりにしましょう。俺はもうあんたを傷つけたくない。どの口が言うんだって呆れてもらって構いませんよ。今更だって俺も分かってる。だけど、もうこれ以上は嫌なんだ。あんたといると、俺は何をするか分からない。もう嫌なんです。あんたの側にいるのは辛い。すみません、先生。

 ――すみません。
 そう言って謝った俺に、先生は無言で頷くだけだった。それきり、俺たちはただの教師と生徒に戻った。一度だけ、先生は月のものが来たことを俺に教えてくれた。そのことに、俺は心の底から安堵したのだった。


*** ***


 五年前の出来事を夢に見た。あの頃の俺は、いまよりずっと青臭くて愚図で鈍間でヘマをしがちだった。今の俺なら、あんなに愚かな真似はしないのに。五年前に姿を消したあの人の静かな瞳を思い出す。迷った時はいつもそうだ。俺は旅の支度をして外に出た。
 この五年を言葉で表すのは簡単だ。地獄の一言で事足りる。不安定な台座に乗っていた国は傾き、俺たちは支えるべき主すら失ってなお足掻く愚か者とそしられた。俺たちは全く愚かなのだろう。殿下の首を、遺体を見ていないというただそれだけの理由で、まだ戦う刃を下ろせずにいる。けれど五年が経つまでは、俺たちは前にも後にも動けないのだ。
 五年後のガルグ=マクに集まるのだと、舞踏会の夜に笑いあったことが懐かしい。子どもの口約束ひとつに縋って生きてきたことを、俺たちは恥じるべきなのかもしれないが、その希望ひとつが地獄の中では唯一の光明だった。
「随分早い到着だな」
「そっちも、だろう? フェリクス」
 千年祭に向けて誰からともなくガルグ=マクへ向かうことが決められ、俺たちは揃って国を発つことにした。戦いはいまこの時も続いている。割ける兵は少なく行軍と言えるほどの規模でもない。けれどあの時再会を誓った級友たちのうち、行方が分かる者は全員が現れた。この場にいない者たちの生存を願って、この五年生きてきた愚か者たちだ。
 俺たちは、言葉少なにガルグ=マクを目指した。

 剣戟の音をいち早く聞きつけたのはフェリクスだった。微かな怒号を耳にして、俺たちはそれぞれの得物を手に音のする方へ向かった。決して信じてはいない神に、感謝を捧げたのはその時が初めてだった。
 金色にひるがえる伸びっぱなしの髪。鋭く力強い槍の軌跡。薄緑が光跡のように尾を引く。鋭さを少しも損なわない速さで煌めく刃。
 涙の代わりに熱い息が漏れた。生きていた。ああ、生きていた!
 歓喜の叫びは雄叫びに変わった。鬨の声が俺たちの魂の叫びだった。敵を倒し、少しずつ彼らに近づく。槍を握る両手が震えていた。
「殿下! 先生!」
 声をあげたのは誰だったろう。すべての敵を薙ぎ払い、俺たちは二人を取り囲んだ。いつの間にか俺より背丈が高くなった殿下に比べて、先生は記憶の中のままだった。
 二人は揃って、俺たちの予想の斜め上をいった。憎悪に染まり、復讐の道しか求めない殿下はさておき、五年間の出来事を何も知らない先生には誰もが閉口した。けれど俺たちにとって、いや、俺にとっては、それらは些末なことだったのだ。俺はもう決めていた。この五年ずっと考えていた。もしも殿下に会えたなら、俺はこの人の味方になろうと。どうせ国は亡びたようなものなのだ。かつての縁故をよりどころにして何が悪いというのだろう。俺の言葉は殿下に届かなかったが、それでも構わなかった。
 立場も考えも異なるくせに、俺たちはなぜか一つにまとまって、殿下を筆頭に帝国と戦うことで合意した。崩れっぱなしのガルグ=マクを拠点に、各地での転戦が始まったのだ。散らばっていたセイロス騎士団が加わったことで、俺たちはなんとか戦力としての体裁を保てるようにもなっていた。いつの間にか先生は、セイロス教団の重鎮として扱われていた。
 それでも先生は、五年前から何も変わらなかった。だから誰もが彼女を「先生」とあの頃のままで呼んだ。静謐な翡翠の瞳は、記憶にあるよりもずっと美しい。戦いの前、教団の騎士たちが神に祈りを捧げる瞬間、俺はいつからか彼女に勝利を誓うようになった。
 実際、彼女は戦女神のようなものだったのだ。兵を率い、律するのはいつも彼女だった。誰よりも前に出て敵を打ち滅ぼす殿下の隣に、いつも薄緑の髪がひるがえる。冬の薄い空の下で、血に濡れてさえ彼女は美しかった。
 時折、五年前の愚かな自分を思い出すことがある。それは苦い思い出で、決まって俺は自分の腕に爪を立てた。そして同時にまだ自分が彼女をひどく妬んでいることに思い至った。彼女はもう、紋章を知らない女ではないのに。それどころか、その身に宿す幻の紋章によって、教団の長ともいえる立場に押し上げられ、もはや逃げることさえ叶わない場所に立たされているというのに。きっとあの静かに凪いだ瞳のせいだ。美しい宝石のようなあの瞳が、俺に焦燥感を抱かせる。執着と憎悪。これが何なのか、俺はたぶん知っている。

「敵はまだこちらに気付いていない。両脇から挟撃して仕留めよう。フェリクスの部隊は左から、シルヴァンは右から近寄って敵を撃ってほしい」
「承知した」
「任せてくださいよ」
「ディミトリは私と正面から突っ込む。って聞いてないね」
 いつものやり取りに苦笑する。俺たちは野獣と化した殿下を先生に押し付け、それぞれの持ち場に向かって散らばった。何のことはない、ガルグ=マクに近づいた敵の偵察部隊を叩くだけだ。それが帝国の兵だというだけで、殿下はいつも以上に猪突猛進になるけれど、先生が側についていれば無茶は事前に止められた。
 これまで幾度となく繰り返して見慣れた光景だった。配下の兵を率いて静かに林の中を行軍する。フェリクスの部隊が鬨の声を挙げるのを合図に、敵へ飛び掛かるのもいつも通りだ。血飛沫があがり、阿鼻叫喚の渦に飲まれる。肉を裂く感触にもとうに慣れた。味方が倒れるより多く敵を殺す。目の前の敵を確実に、一人ずつ。それが勝利への道筋だった。そして俺はいつもあの人の姿を追う。煌めく刃を。風になびく薄緑の髪を。そしてその、強い瞳を。
 混沌とした戦いのさなかにその人はいた。血を浴びて頬を濡らし、それでも立ち止まらずに敵を斬り伏せる。けれどその身がひとりの兵を貫いた時、振り上げられた刃があった。
「先生っ!」
 駆け付けて間に合う距離ではなかった。だから致し方なかったのだ。考えるより先に、俺は腕を振り上げ、手にした槍を投擲した。空を裂いた血濡れの槍は、過たず敵兵の背を貫いた。振り返った先生が目を瞠る。
「シルヴァン、後ろ!」
 肩に重い衝撃を受けて、俺は馬から転げ落ちた。焼け付くように肩が熱い。馬に踏まれないよう転がった俺は、振り上げられた刃を鎧の端で受け止めた。
「ぐっ」
 衝撃が肩に響く。次いで顔面目掛けて構えられた切っ先に、ああこれは不味いぞと頭の隅が呑気な声をあげた。だけど、そうだ。ひとつだけ。あの人より先に死ねるなら、それは少し誇らしいと、俺は確かに思ったのだ。
 空を切る音がして、血飛沫が舞った。ばらばらと光の跡を残して、閃く刃が宙を舞う。天帝の剣。降り注ぐ血潮を浴びた俺は、その切っ先が戻る先に目をやって瞠目した。
 今にも泣きそうな顔で、剣を握るその人がいた。

「いやあ、助かりました」
 憤然と睨みつけてくる翡翠の瞳に、俺はへらりと笑って頭を下げた。傷は既に塞がっている。魔導士の白魔法には度々世話になるが、痛みがないかと言えばそうでもない。引き攣れた傷跡は皮膚に残り、流れ出た血は戻らないのだ。俺は当然のように自室待機を命じられ、ひとり大人しくベッドに横になっていた。はずだった。
「わざわざ見舞いに来てもらってすみません」
「怪我の具合は? 起きていて大丈夫なの?」
「傷なんてもうすっかり塞がってますよ。大将格のあんたに見舞われて、寝込んでられるほど重傷じゃありませんて」
 起き上がった俺は先生に椅子をすすめたが、彼女は頑として座ろうとしなかった。仁王立ちのまま俺を見下ろし、睨みつけてくる。
「どうして武器を手放したりしたの」
「あんたが危なかったからですよ」
「それで自分が危うくなるなんて馬鹿げてる」
「そうですか? 一兵卒の俺より、指揮官のあんたのほうが軍にとっちゃ大切だ」
 実際には配下に兵を持つ俺だ。一兵卒とは言いすぎだが、それでも先生より軽んじられる立場であることは間違いない。正当な回答だと思ったのに、彼女は納得しなかった。
「殺したいほど憎いんじゃなかったの」
「はは、よく覚えてましたね」
 目を眇めた俺を、先生は許さなかった。燃えるような怒りを込めて、翡翠の瞳が揺らめいている。それはとても綺麗で、思わず俺は見惚れていた。
「放っておけば、良かったのに」
「……そんなこと、死んだってできませんよ」
 俺は眩しくなって、そっと彼女から目を逸らした。
「俺はね、先生。まだあんたのことが憎くて妬ましい。でもいざあんたが死ぬのかと思ったら、体が勝手に動いて止まらなかった」
 五年前、一度その喪失を味わっているからだろう。行方知れずという希望を残した別れでなく、目の前でその体が引き裂かれたなら。ああ、想像するだに恐ろしい。きっと俺は、先生より後には死ねないと、あの時初めてそう思った。
「そんなのは、ずるい」
 そうだろう。俺だってそう思う。だけど、俺の執着と憎悪は先生、あんたのものなのだ。
 恋は執着と、愛は憎悪と紙一重だという。なら、翻って俺のこの感情は、恋であり愛なのかもしれない。
 俺は殿下のために戦うと決めたのに、あんたのために命を投げ出してもいいと思ってしまったのだ。もう、逃げられないほど、俺はあんたに囚われている。あんたが眩しくてたまらないから。あんたの瞳が、美しすぎるから。
「私だって、シルヴァンには先に死なれたくない」
「それは残念。俺はもう、あんたより先に死ぬって決めちまいましたから」
「嫌だ」
「嫌だって、あんた」
 私を置いて死なないで。絞り出すような声は、まるで五年前から聞こえたような気がした。あの夜。俺が先生を突き放したあの夜に、もしかしたら先生はそう言って泣きたかったのかもしれない。
「……あんたのほうが、ずるいじゃないですか」
 惚れた女にそんなことを言われて、喜ばない男がいるものか。けれどそれは、取り縋るにはあまりにも甘美で、俺にとっては遠すぎた。五年前とは違うのだ。もう俺は、月に手は伸ばさない。
「ほら、顔を上げてください。綺麗な顔が台無しだ」
「シルヴァン」
「あんたは、俺より前を歩かなきゃならない。後ろは振り返っちゃいけないんです」
 五年の月日が、俺に笑顔を作らせた。ひどく傷ついた顔をして、縋るように見つめてくる瞳を受け止める。いまや隠しようもなくその瞳に映る恋慕の情は、俺を一層微笑ませるだけだった。

 月日は面白いくらい足早に過ぎて行った。俺たちは敵を討ち、味方を失い、傷つきながら這いずって前に進んでいた。途中でフェリクスの父親が死に、それを契機に殿下の瞳に力が戻ったけれど、俺たちが満身創痍であることに変わりはなかった。
 遠く帝都へ思いを馳せながら、王都奪還に方針が変わっても、俺がやるべきことは一つも変わらない。殿下のために、先生のために、一人でも多くの敵を倒す。死ぬことはもう怖くなかった。前に出すぎて叱られることが増えた分、俺があげた首級の数も多くなった。
「シルヴァン、自重してくれ」
 先生の代わりに、殿下から窘められることが多くなったのは、小さな変化かもしれない。
「お前がいなくなると困る」
「大丈夫ですよ。俺はまだ死にませんって」
 腕を持ち上げて請け負ってみても、信用はされなかった。日頃の行いが悪いのかもしれない。苦笑する俺を、痛ましそうに殿下が見下ろす。そんな顔をされるのは心外だった。この数年で一番、俺は充実した時を過ごしていたのだから。
「思ったより敵の数が多いな」
「陽動で兵を分断しましょう。俺が囮になります」
 王都の攻略を控えた軍議で、名乗りをあげた俺に視線が集中した。誰からも異議は上がらない。騎馬兵を連れた俺の部隊なら、脚の速さでも敵を撹乱できる。策は俺が正面から乗り込み、敵を引きつけている間に王城を目指すことで固まった。
「シルヴァン、くれぐれも無茶をするな」
 殿下の声に、俺は曖昧に頷いた。これが難しい戦だということは誰もが理解している。帝国に出向くまで死ぬつもりはなかったが、生きて戻ると約束できるほど簡単な策でないことも承知していた。
 その日は陽が昇る前に陣を発った。日の出前の涼やかな風が、髪をなぶって吹き抜けていく。神に祈りを捧げる兵の隣で、俺は俺だけの女神に勝利を誓った。
 蹄の音が、石畳を蹴る。混戦となった城下町の一角は、おびただしい数の死体で溢れかえった。距離がある敵には魔法を、近接戦では槍を振るい、ひとつひとつ敵の首を落とす。血煙でむせ返るような空気の中、敵も味方も数を減らしていく。王城の方角で煙が上がるのを確認しながら、敵を引きつけ続けるうち、味方の数は両手で数えられるほどに減っていた。
「戦線、もうもちません!」
「まだ退くな! 死ぬ気で耐えろ!」
 予想よりも敵の数が多い。その分、王城攻略に時間がかかっているのだろう。退避の狼煙はまだ上がらない。だがここで退くわけにはいかなかった。目の前の敵が王城へ向かえば、その分、殿下たちが苦戦する。ここが死に時かもしれない。ふっと自嘲の笑みが漏れた。手の中の破裂の槍を握りなおす。この槍を手にして死ぬとは、ゴーティエの紋章持ちに相応しい。
「ハッ。目にもの見せてやろうじゃねぇか」
 すぐそばで、友軍の馬がもんどりうって倒れていった。馬首をめぐらし、敵の側に駆け寄る。槍は唸りを立てて、男の首を掻き斬った。
「どいてもらうぜ!」
 不思議と、晴れやかな気持ちになっていた。こんな俺でも、殿下や先生の役に立てているのだと、妙な自負が胸中を満たしている。放たれる敵の攻撃を、跳ね飛んで躱し、反撃に移る。無性に愉快で、手の中の槍が軽く感じた。ああ、先生。あんたを殺したいと思った男は、あんたのために死ねることが嬉しくてたまらないようですよ。ここにいない女に語りかけると、槍を振るう腕に力がこもった。
 ベレス。俺が愛した人。俺が死んでも、どうか俺のために泣かないでください。
「シルヴァン!」
 不意によく通る声が聞こえた。
「退け、シルヴァン! 王城は落ちた!」
 どうして、あんたが。
 血に濡れた剣を振りかざし、駆けてくる女に呻き声が漏れる。
 何をやっているんだ、あんたは!
「狼煙の台車が敵にやられたんだ。合図ができなくて、すまなかった」
「だ、からって! あんたがわざわざ出向いてくるこたぁないでしょうが!」
「私が来たかったんだ。ほら、退くよ」
 退路を開く友軍の間を、先生と並んで進みながら、どっと疲れが肩にかかるのを感じていた。

「さぁ、申し開きを聞こうか」
 王城の一室に落ち着いた俺を待っていたのは、先生による尋問だった。
「何のことです?」
「とぼけないで。さっきの戦い、死ぬつもりだっただろう」
 鋭い視線が突き刺さる。俺は両手をあげて降参の意を示した。
「落ち着いてくださいよ。俺は生きてますって」
「でも死ぬつもりで戦っていた」
「そう見えたんなら謝ります」
「謝って済む問題じゃない」
 なんで怒られているんだ、俺は。奮戦したことを褒められこそすれ、叱られるのは納得がいかない。そんな考えが顔に出てしまったのだろう。先生は深く深くため息をついた。
「シルヴァンが死んだら、私も死ぬ」
「は」
「今後はそのつもりでいてほしい」
「ま、待て待て待て! どうしてそういう話になるんです!」
「どうして?」
 見上げてくる瞳が、まっすぐ俺の目を貫いた。そんなことは決まっているだろうと言いたげな、迷いのない瞳だった。
「私が君を愛しているからだ」
「そんなことは、知ってますよ」
「知っててあれなら、余計に質が悪い」
「そういう話をしているんじゃないです。あんたは軍師だ。この軍を抱えて、導かなくちゃならない。少なくともこの戦争が終わるまで、あんたについてまわる責務がある。それを放り出して、俺と心中なんて何を考えてるんです」
 先生のために死ねる兵士は沢山いる。セイロス騎士団の連中は、丸ごと先生の私兵みたいなものだ。それは簡単に放り出せるほど軽い存在ではない。そんな愚かなことを考える女だったのかと、俺が詰ろうとした時、先生はひどく美しい笑い方をした。
「だって仕方ないだろう?」
 見上げてくる翡翠の瞳に、ただのひとつも曇りはなかった。
「君が私の首を絞めたとき、君に殺されるなら幸せだと思ったんだ」
 ねぇ、シルヴァン。先生の優しい声が聞こえた。
「狂っているのが自分だけだなんて、思わないほうがいいよ」
 愕然とする俺の頬をするりと撫でて、それきり先生は部屋を出て行った。

 はは。どうしてこうなった。俺はあの人のことが好きで、だけど壊れてて、あの人が憎くて妬ましくて殺してやりたいはずなのだ。それは静謐で美しいあの人を汚すことになる。こんな汚れた感情であの人に触れたくない。綺麗なままでいて欲しい。そう思って生きてきたはずなのに。
 俺に殺されたなら幸せだって? ずっとあの人も狂っていた? それとも俺が狂わせたのか。俺を愛していると言ったあの人の、曇りのない瞳はだけど綺麗だった。思わず見惚れて吸い込まれるほどに。そして、ああ。彼女を強く抱き締めたいと思うほどに。

 王都が陥落してから俺たちの軍は膨れ上がった。花冠の節にはレスター諸侯同盟との折衷が終わり、青海の節にはメリセウス要塞を落とすまでになったのだ。あとは帝都を落とすだけとなった俺たちは、破竹の勢いでアンヴァルに攻め上った。
 相変わらず先生の指揮で負け知らずの俺たちを、王都の連中は奇跡の行軍だと褒めそやしたけれど、連戦に次ぐ連戦で兵の疲弊も大概酷い有様だった。ただ気力で持っている。そんな気配を抱えながら、それでも俺たちは最後の戦いに向かっていった。
 翠雨の節のアンヴァルは、生温い風が吹いていた。決戦前夜の興奮が、あちこちの天幕に立ち込めている。どいつもこいつも、興奮して眠れないのだ。同じ理由で槍の手入れをしていた俺の天幕に、先生が現れたのは夜も更けた頃だった。
「シルヴァンも眠れないの?」
「そういう先生も、でしょう」
「いや、私は君に渡すものがあって」
「? 落とし物をした記憶はありませんけどね」
 何かを拾っては届けてまわる先生を思い出し、そう言った俺に先生は肩を竦めた。
「落とし物じゃないよ。良い物をあげよう。手を出して」
 開いた手のひらに落ちたのは、繊細な造りの指輪だった。見たことのない意匠だが、魔道具か何かだろうか。
「なんですか、これ」
「うん。呪いの指輪」
「はぁ?」
「明日はそれを持って出てほしい。……きっと、死ぬ気になんてならなくなるよ」
「先生」
「愛してるよ、シルヴァン。おやすみ」
 ちゅっと手のひらにキスをして、先生は身を翻した。拒否する暇もない早業だった。
 一晩中、俺は小さな指輪を眺めて過ごす羽目になった。

 明朝、鳥の鳴く声が聞こえる前に、俺たちは陣幕を後にした。引き絞った弓の弦のように、張りつめた雰囲気が辺りを満たしている。緊張と興奮に染まった俺たちは、逸る気持ちを抱えたままで城下に向かった。
 戦いは凄惨を極めた。後がない帝国軍の抵抗は激しく、消耗戦を強いられて兵が疲弊していく。それでも俺たちは前に進むしかないのだ。殿下や先生が血路を開き、倒れていく仲間の屍を越えて脚を踏み出す。手持ちの薬を浴びるように飲みながら、血でぬるつく柄を掴みなおして這いずるように宮殿を目指した。
 俺はずっと、先生の背中を見ていた。あの人が無事なら、それで良かった。ことここに至って、俺の頭は殿下のことすら考えていなかったのだ。とんだ忠臣だとフェリクスあたりに笑われるだろう。
 宮殿の扉が開く。終わりはもう目の前だ。そうして俺たちは、絶望を目にした。
 玉座に立つ化け物に、大勢が息を呑む。殿下の唇が、エーデルガルト、と女の名前を音にした。
 それはもはや人ではなかった。醜く伸びた体躯を鎧のように包むのは一体なんだ。得体の知れない恐怖の中で、俺たちは武器を構えた。
 ひとり、ひとりとまた欠けていく。アネットが、メルセデスが、イングリットが、アッシュが。膝をつく仲間を置いて、俺たちは玉座との距離を詰める。魔力不足に痺れる腕を振り上げ、砕けそうな膝を叱咤して立ち上がる。行け、殿下。行け、先生。二人が駆ける道を開きながら、俺が叫ぶ。フェリクスが叫ぶ。天帝の剣が空を薙ぎ、アラドヴァルが魔弾を避けた。
 そして。
 そうして。
 ついに二人の刃が、エーデルガルトの体を貫いた。


*** ***


 白んでいく空を、ぼんやりと眺めていた。女神の塔からの景色は、半分霧にけぶって霞んでいた。靴音が聞こえる。現れたその人を振り向いて、俺は自然と口元を緩めた。
「おはようございます、先生」
「おはよう。早いね」
「ええ。どうにも目が冴えちまって。けど、そういう先生だって、予定より随分早いじゃないですか」
 約束の刻限までまだかなりの時間がある。俺の隣に立ちながら、先生も窓の向こうを眺めた。
「私も、落ち着かなくて寝ていられなかった」
 女神の塔に先生を呼び出したのは俺のほうだ。話があると告げれば、二つ返事で応えは返ってきた。さて、何から話そうか。聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。本当なら、腰を落ち着けて話すべきなのかもしれない。けれど誰にも邪魔されたくなかった。
「ねぇ、先生。本当に、平和な世の中なんてものが来ちゃいましたね」
「皆が戦った結果だ。誰が欠けても、この未来はこなかった」
「そうですかね。俺がいなくても、あんたはここに立っていた気がしますよ」
 戦時の面影すらない、凪いだ瞳が俺を見つめてふるりと揺れた。首を横に振って、きっぱりと彼女は言う。
「それはないよ」
「俺が死んだら、あんたも死ぬから?」
「そう」
「ずっと聞きたかったんですけど、俺なんかのどこがそんなに良いんですか」
 自慢じゃないが、俺よりよほど殿下やフェリクスのほうが誠実だろうと思う。戦闘の腕前もそうだ。運よく生き残れはしたが、模擬戦ではいつだって殿下やフェリクスに伸されていた。
「……よく笑う顔が好き。低めた時の声。戦場での広い視野。馬に乗った時のよく伸びた背中。大きくてごつい手。キスが上手なところ。それから」
「ま、待った待った待った」
 この人は恥ずかしいことをぽんぽんと真顔で――……。いや、見下ろした彼女の頬は、うっすらと赤く染まっていた。
「それから、私を女扱いしてくれたところ」
「へ」
「……私を抱いてくれただろう。初めて抱かれた時、君を男だと意識したんだ」
 あんな雑なセックスで、俺に惚れたって? 唖然とする俺から目を逸らさずに、先生はいつもより饒舌になってその先を続けた。
「傭兵時代はずっと男みたいな生活をしていたから、シルヴァンと話す時はいつも新鮮だった。体を重ねてしまってからは、ずっと君の特別になりたいと思っていたんだ。目で追えば追うほど、色んなところが好きになった。君に恋する女の子たちの気持ちがよく分かったよ。人当たりが良くて、面倒見が良くて、一緒にいるとすごく楽しいのに、そのくせ内面には踏み込ませてくれない。狡くて卑怯な男だと思った。それでも、一度好きだと思ったら止まらなくなった」
 君に殺されてもいいと思うくらいには。
 まっすぐに見つめてくる瞳に、慕情が宿っている。胸が苦しくなるくらい真剣な眼差しは、俺の心臓を撃ち抜いた。
「……参った」
 俺は大概、あんたの瞳に弱いのだ。
「参りましたよ、先生。俺の負けです」
 俺は懐に手を突っ込むと、もう一方の手で先生の左手を勝手に掴み、その手のひらを広げた。朝焼けにきらりと翠玉が光る。華奢な輪は、ぴたりと彼女の左薬指に収まった。
「……これ」
「前に指輪を貰ったでしょう。そのお返しです」
「シルヴァン」
「待った待った。まだ途中ですって」
 抱き着こうとしてくる先生の肩を押さえ、左手を握る。これくらい格好つけたって構わないだろう。持ち上げた手の薬指。光る石に決意のキスをひとつ。
「……あんたが俺に狂ってるなら、俺はあんたに壊されてる。あんたが憎くて、妬ましくて、憧れてばかりだ。ずっと、この気持ちはなくならないと思うし、俺は今でもあんたが眩しくて仕方ない。だけど、もう観念しました。それでも俺は、あんたのことが誰より好きだ」
 先生。呼びかけた声は無様に掠れていた。
「俺と結婚してください。それで一緒に、死にましょう」
 その時俺に向けられた笑顔は、この世で一番美しかった。